Series

パターン

  1. パターン<序>
  2. パターン<破>
  3. パターン<急>
  4. パターン<転>

これまでの議論

前回までは、安永によるパターンという独自の概念を紹介し、パターンのもつ公理性を数式や図解を引用して、ひとつの幾何学として示した。 また<序>で紹介した「なぜ私は死んだことになっているのか」という患者の問いかけに対して、精神病理学的な考察と前提知識の整理を行ってきた。その過程で、安永が「ファントム空間」を「直接われわれの体験を包み満たしている、目に見えない肉体のような空間」と定義したことにも触れた。

読者の皆さんはすでにお気づきだろうが、ここで一旦要点を述べよう。 端的にいえば、私は当初、「私が死んだことになっている」という発話を、生/死のパターン逆転として理解しようとしていた。 つまり、「死んでいる」ことが前提となり、「生きている」ことがその下位に従属してしまっている。そのように読めるのではないかと考えたのである。

しかし、安永の議論を読み直し、ファントム機能や作為体験の説明をたどるうちに、少しずつ迷うようになった。この発話は、本当に生/死のパターン逆転として捉えきれるのだろうか。

現実には生きているにもかかわらず、主体にとっては「自身は死んだことになっている」というチグハグな編成が成立している。 この場合、「私は」という主語が先行しているぶん、自/他の区別はかろうじて保たれていたのかもしれない。しかし当人の困惑した表情とは裏腹に、語り口はどこかよそよそしく、他人事のような印象を与えた。 この違和感を、自/他のパターン逆転として読むこともできる。だが、それだけでは少し粗いのではないか。この時点では、まだうまく言えない何かが残っていた。

ここで内なる自分が、次のように語りかける。

「わかった、わかった。お前の言いたいことはなんとなくわかった。患者さんの発言は要するにお前のいう『パターン逆転』が起きているんだろう。しかし、ここまで3つの記事を投稿してようやくその結論はどうなんだ。それでは物足りない。みんなが知りたいのは『なぜそれが起きるんだ』ということと、『どんな時に起きるんだ』ということなんじゃないか」

——全くその通りである。

これまで私は、パターン逆転がなぜ起きるのかに対し、生物学的な「原因」には一切言及せず、精神の構造(精神の幾何学)において論理的な均衡が崩れる機構を説明したにすぎない。対象によって心(ここでは精神的ゆとり)がどれだけ占有されているか、その”余裕”の量を「ファントム距離」と呼称し、これが逆転の鍵になると示しただけである。

しかし「なぜ起きるのか」「どんな時に起きるのか」の説明ができる、ということは、もはや統合失調症の原因を精神病理学的に解明したということに近い。そのようなことはいまだかつて誰もなし得ていないし、一介の臨床医である私にそのようなことはできていない。よって、統合失調症の原因論はやはり棚上げせざるを得ない。原因論に言及することはあまりにも恐れ多い。

統合失調症への適用

安永は、「精神の幾何学」および「ファントム空間論」にて「パターン」が統合失調症の把握に特異的に有用であると予想した。 すなわち、統合失調症の体験の、本質部分は、

パターンにおいて、A、Bの秩序が逆転すること、 (符号的に表せばa<b) によってほぼ正確、統一的に表せる。

と考察したのである。

大胆であるが、極めて明快でもある。 彼は「幻覚」「思考障害」「自我障害」「妄想」「作為体験」といった典型的な症状についてパターンの逆転で説明できると述べ、これらは「ファントム空間論」において詳細に記述されている。 これらの症状すべてについて、私も彼の考えを我田引水するのもよいのかもしれないが、ただでさえ縷々とした記事が益々冗長になってしまう。これは私の望むところではない。しかしながら、私が重要だと感じた彼の考察点について、特に「幻聴」に言及しておきたい。

 統合失調症においては、幻聴ほどには幻視は目立たない。何故そうなのか、といった問題、また一般に個々の患者において何故特定の機能局面に統合失調症障害が現われるのか(ある人には幻覚として、ある人には妄想として……)という、身体医学における器官選択の問題に似た問題は本稿の論点とは全く別個の課題であって、ここで深く立ち入ることはできない。しかし統合失調症の幻聴はおそらく「言語」的思考の機能と関係しており、これが完全に機能するためにはかなり強い『パターン』分極を要し、それ故統合失調症起点の侵襲によってまず破綻を来たしやすい、といった関係があるのであろう(幻聴がまだ下意識的な、未完成な思考内容を示すこと、逆にいえば意識的に遂行完成され得た程の思考ならば幻聴にはならない、ということは当然含まれている)。それに対して視覚的形像を用いる直観的思考は、それ程強い『パターン』分極を要せず成り立つらしい。だから意識障害時(a, b→0)にはむしろこれのみが機能する。それ位であるからこの機転に対しても安定であり、『パターン』逆転のような事態を起こしにくいのであろう。

しかし幻聴の場合に似た特徴的現象はないのではない。「視野のはしをチラと黒犬のような影がかすめる。ハッと気がつくともういない……」といったたぐいの訴えは、統合失調症で時々きかれる。ただの錯覚よりも強制的性格が強い。「一つの〝顔〟が頭につく……」その〝顔〟もメカニックな、あるいは蒼古的な変容を帯び、通常の表象や夢におけるような生きた感じをもたない。このようなものがおそらくこの領域におけるa<b体験の萌芽なのであろう。これが発展してしばしば見られるような統合失調症的に奇怪な幻視の訴えになる。「顔がみえる、人がいる」等と平然と言い出すようになる。それらは明瞭な感覚性をそなえているように思われず、また視覚では、いわゆる外空間と内空間の識別はしようと思えば聴覚の場合よりずっとやりやすいはずであるにもかかわらず、その割には意外なくらい病識を示さない。これらの性質はやはりこれらがa<b体験である、と理解することによってわかりやすくなる。

——安永浩、「ファントム空間論」金剛出版、2014年(Kindle版)分裂病を統合失調症に改めるなど一部改編

彼の言う通り、統合失調症では幻視よりも幻聴の方が多い。もちろんないことはないが、鮮明な幻視を伴う訴えは少ない。 なぜ、幻視は少ないのか?という疑問に対して彼はパターンの分極、という言葉を用いて説明をしている。分極というのは化学の用語である。電極がプラスとマイナスに二分されるように、言語というのは、感覚や連想、言葉の断片、記憶の断片などを、ただ漂わせるのではなく、文や意味としてまとめ、一つの判断・意図としてまとめるように収束させる必要がある。 分極が強いということは、言葉が「私」のものなのか、「外」から聞こえたのか、「現実」のものなのか、「過去」の話なのかといった、言語の断片の帰属先(どこに所属するか)を明瞭にする。 しかしながら、分極が弱いと、この境界づけが弛緩し、甘くなってしまう。安永のいうパターン逆転が生じやすくなる。

一方、視覚情報は、言語に比べてパターン分極をあまり要さずとも「それっぽく」理解できてしまう。言語というのは、どのような言語だろうと、文法規則が崩れてしまうと文意が崩れてしまう一方で、なんとなく視覚情報がつかめれば「黒い犬っぽい影」のように直観してしまう。かつて私が経験した症例にも、たまたまベッド柵にオレンジ色のシールがシャリの大きさで貼ってあったために、ここにサーモンのお寿司があるなんておかしいわねと困惑した様子でナースコールを押した患者さんがいた。それだけ視覚情報というのは、曖昧さを漂わせているのだろう。

こうした幻覚、特に幻聴といった基本的な症状はパターン逆転で説明できるだろう、ということを安永は示したわけである。

「ファントム機能」

先にファントム機能の定義を述べておこう。私たちが体験する空間——体験的空間——は、ある「距離」に張られていて、私たちがイメージする表象や、知覚する対象は「一定距離」をおいたその端に投影される。この距離こそ、繰り返し説明してきた「ファントム距離」である。「ファントム距離」が遠ければ、主体はイメージに対して存在的猶予を持てる。いわば安心感である。苦手な上司との距離が近ければ主体は一種のエネルギーを用いる。自分と他者の間合いをなるべく遠くへ伸ばすように、間合いを保つことで、実存的余裕を得ることができる。この距離を保っている特殊エネルギー実体の働きをファントム機能と呼称する。無論、ファントム距離を司る機能が及ぶ空間はファントム空間と定義できる。ここまで説明するのにだいぶ長くなってしまった。

ファントム空間は正常な場合、習慣的につくりあげられた世界の距離的構造の認識図式とファントム機能は完全に一致している。つまり、主体が「このくらいだろうな」と見積もって、試着したズボンの丈の長さが実際の自分の足の長さとだいたい一致しているように、ファントム距離と実際の距離の認識を分離して考えることはない。 乗り慣れた車を運転する時も、狭い駐車場で車をぶつけないように取り回せてしまうのは、私たちがファントム機能を用いて、ファントム距離を拡張させているから、とみなすこともできる。もっと身近にいうと、箸やフォーク、ナイフを使って食事しているのもファントム機能の応用といえる。おそらく、このような話題は脳神経学者などの文脈では、空間認知に関する学問領域で論じられるのだろう。V. S. ラマチャンドランの「脳のなかの幽霊(Phantoms in the Brain: Probing the Mysteries of the Human Mind.)」 はその好例といえよう。ラマチャンドランはその著作の中で、安永と同じく幻肢痛について考察をしており、非常に簡単な言い方をすると、幻肢痛が起きるのは脳内にある体の各部位に対応する配置(マッピング)が、その部位を失ったにもかかわらず更新されないからではないか、と論じている。 脱線してしまうが、両者はアプローチが全く異なるにもかかわらず、本質的には非常に近接した症状機構論を展開しているのかもしれない。

さて、統合失調症において、ファントム機能が急激に衰弱したと仮定する。どうなるか。安永は次にように説明を行う。 ファントム距離は短縮するが、主体である本人はこれを「知らない・気づかない」ということが起きる。主体はいつも通りのある距離を測定するのだが、イメージはその「予期された距離」にはなかった。本人はよろめき、錯覚運動が起こる。この場合、知覚するイメージは「遠ざかり運動」を起こす。

この説明を最もわかりやすく説明できるのは、「階段を踏み外したそのときは階段がなくなった」と思う現象であろう。私たちは次の瞬間に目で見て踏み外したと気づく。すなわち階段がなくなったとする体性感覚をその感覚とは独立した視覚が訂正してくれる。しかし、統合失調症の様々な症状の場合、体性感覚に対する視覚のような訂正機構は存在しない。それまでの体験図式に対する固執性ともいうべき特性が看取される。 よって足を踏み外したとき、大地が陥没したという感覚が持続するのである。この場合、自分自身と外界は「異様」な裂隙感で隔てられることになる。

別の現象が起きる場合もあるという。なんとかファントム機能を振り絞って(過剰な代償的努力によって)ようやく本来の距離をとりもどしたとする。この場合、緊張を緩めてしまうと主体にとって外界は「異様」に近い(近づかれる)感覚に陥ることになろう。したがって遠ざかりと急接近の錯覚運動が生じうる。安永はこれらを「遠ざかり効果」と「自我収縮効果」と呼んだ。「ファントム短縮」は世界自体の錯覚運動であり、対象に対して錯覚が起きれば前者が、自分についていえば後者として現象する。大地が沈下したと考えるか、自分の足が短縮したと考えるか、これは相対的な関係と文脈で成立するのだろう。

安永自身はファントムは弾性体のように伸縮すると述べているが、私もファントムはゴム風船のような伸縮性を基本的にイメージする。ゴムが硬化すれば可動性は少なくなるし、過伸展してしまえば、収縮機能に支障が出てしまう。こう考えると、ゴムというよりも心臓そのものの本質的な機能を説明しているような気がしてしまう。つまり生命の機能に還元している。私の想像力の限界がそうさせているのか、あるいはファントム機能がやはり生命エネルギー機能であることを黙示しているのか。

問いに還る

このシリーズの問いに戻りたい。なぜ「私が死んだことになっている」という発話が生じるのか。その理解に、もう一度戻らなくてはならない。その問いに答えうる理論にファントム空間論が当てはまるのではないかと考え、説明を試みてきた。説明を試みるということは、私自身が説明できるように言葉を紡ぐわけだが、非常に難しいものであった。正直にいうと、果たしてファントム理論はこの問いを説明できるのか?という疑問が生じるようになった。

「どうして私が死んだことになっているのですか」

という発言を分解してみよう。

当初、私はこれを生と死のパターン逆転、因果律の逆転が生じていると考え、パターンについて原著と関連書籍をあたった。臨床をしながらスキマ時間に読書と思索を続けていたのだが、告白するとかれこれ6−7年は考え続けていることになろう。以前まで私は「死んでいる」ことが前提となり、「生きている」ことがその下位に従属してしまっている。そのように読めるのではないかと考えた。 しかし、改めて考えてみると、「死んだことになっている」ということは、そもそも「死んでいない」のである。揚げ足取りのように思われるが、やはりこだわらなくてはなるまい。 そして、大切なのは、「死んだことになっている」という表現には、私について何かを決定している外部の気配が含まれている、という点である。私についての扱いが、私の外部で処理されている。そして、そのことを私は知っている。それを知っている私は、なすすべもなく傍観している。

その発言は脈絡なく突然発せられたものであった。つまり、本人は完全に困惑しているのだが、切羽詰まった様子ではない。どこか自己完結していて、周りに生存戦略の相談をするわけでもない。困惑しているからとりあえず発言した、という印象にとどまり、「ではどうしてほしいのか」という問いには答えないし、「誰がそうしたのか」という質問にも答えない。 身も蓋もない話をすると、答えられようがないだろう。

「外部の存在なんてありませんよ・・・ ファンタジーやメルヘンじゃあないんですから」

と冷たく言われてしまうかもしれない。 この現象について考察するならば、自他のパターン逆転の要素は確かにあり得る。しかしながら、逆転している、というよりも「私たる一人称が三人称化」しているという理解が最も適当だろうと思われる。 完全な他者が私を優位しているのではなく、一人称の私がいるが、三人称の私が派生してきて、勝手に死んだことにしてしまう。一人称の私はそれを知るのみである。

この現象に最も近い術語を探すなら、シュナイダーの一級症状の一つである「作為体験」ないし「させられ体験」が思い浮かぶ。これは実行意識の異常として理解される。無論、安永も「ファントム短縮」に基づき、丁寧に説明を行っている。

まずは「精神の幾何学」から彼の自我に関する考察を見ていただくのが良いだろう。さらに図を示す。

通常「私は」『自我』を通じて活動しているので、「私は」と「自我」はほとんど区別がつかない一体とみなされているし、多くの場合それで不都合はない。しかし少し厳密に考えれば、俗にいわれる「自我」とはこのような二極としてしか(即ち『パターン』A/Bとしてしか)絶対に表現しようはないものである。ここで「私は」をe、「自我」をEと記号づけすると、eが(体験線の図上では左の)端に位置するのに対し、Eはわずかにはなれて”下流”に置かれる。 この、わずかであっても存在する落差は、通常はe-E合わせて「自分」であっても、場合によってはeがEを対象化し得ることを示している。即ち「反省される自分」、ウィリアム・ジェームズ(米国の心理学者・哲学者)の言葉を借りれば「客我」となる。のちのち見るように、体験線上では多数の図式が、順序をもって並ぶことになる。たとえば一般の「肉体」(ことに手、足の如き肉体的道具)は、Eよりもさらにちょっとはなれてその下流におかれる。メガネは眼より下流におかれる、等。一般に了解論理的に先行しているものが上におかれる。 しかしここでは、その”中間帯”をとばして体験線の右の端のところを先におさえておこう。当然そこには「対象」(広義)がある。それはのびていった体験線がぶつかるところである。知覚の場合それは知覚像として外界に定位されるが、直接見えるそのものの形、色、意味は「私にとって」の見え方にすぎない。そのさらに「彼方」には、絶対客観と想定される、或る窮極の存在がある。しかしこれは自極eに対応する理論的「点」に過ぎず、これは(現象学的)対象極である。それに対して実際に見える具体的な知覚像は、自我の機能も参与して構成した対象の「図式」である。 対象極をf、対象図式をFと記号づければ、一応体験線は閉じて、一つの体験世界が記号化される。

体験線とファントムの範囲

ファントム短縮とEの上手化

この引用で理解すべきは、自己には、体験の究極的な出発点であるeと、eが俯瞰するEがあるのだということだ。この考え方は本文にもある通り、ウィリアム・ジェームズ(1842-1910)と、体験を方向づける矢印にエトムント・フッサール(1859-1938)の思想が込められている。 安永によれば、この「体験基準線」を規定しているファントムにおいてファントム短縮が生じ、eEの順番が逆転し、Eeとなるという。このようになると、 「私が喋っているのではなく、喋らされているのです」といった現象が起きるという。

なるほど、これに従えば、「私が死んだことにされる」という体験も説明できるように思われる。私についての決定が、私自身の手を離れているからである。その意味では、これは広い意味での「させられ」や「作為」の構造を含んでいる。

しかし、ここにはなお違いがある。

作為体験で問題になるのは、主として行為や思考や発語の帰属である。私は動いている。しかしそれは私が動かしているのではない。私は考えている。しかしそれは私が考えているのではない。ここでは、行為の主体がずれている。

ところが、「死んだことになっている」という発話で問題になるのは、行為ではない。死は、私がいま遂行している行為ではない。それは、私についての状態であり、扱いであり、世界の側で成立している記載である。シリーズの冒頭で述べたように、そもそも本人は死んでいない。

したがって、「死んだことになっている」は、作為体験の一種として処理してしまうには少し余る。そこには作為体験に似た外部性がある。しかし、その外部性は「私の行為が外から操作される」という形ではなく、「私についての存在論的な位置づけが、私の外部で決定されている」という形をとっている。

つまり、ここで三人称化されているのは、私の行為だけではない。私そのものである。

では、これを何と呼ぶべきなのだろうか。恥ずかしながら、私にはまだ見当がつかない。広義の作為体験と呼ぶのが無難なのかもしれない。しかし、それでは本質を捉えきれていないように思われる。 ここで問題は、作為体験の範囲を超えてしまう。

作為体験では、まず「私」があり、その私に属するはずの行為や思考が、私から離れてしまう。つまり、出発点としての「私」はひとまず保たれている。 しかし、「死んだことになっている」という発話では、もう少し根本的なことが起きているのではないか。ここでは、私の行為が私から離れるだけではない。私自身が、私から離れている。あるいは、一人称としての私とは別に、三人称的に処理された私が生じている。 そうであるなら、問題はもはや「私の行為が誰に属するのか」ではない。そもそも、体験の出発点としての「私」とは何なのか、という問いに移っていく。

意図せずして安永を批判するようになってしまった。しかし、私が感じていた違和感を代弁するような記載を、『精神の幾何学』の「解説にかえて」に見つけた。内海健による次の指摘である。

パターンやファントムがいったん確立したとしても、それが個すなわち「私」であることは、必ずしも自明なことではないという批判である。<中略> 今振り返ると、それほど的外れなものではなかったと思う。なぜなら先生は最晩年の論考の中で、自分が唯一理解できなかった精神病理が「解離」であると告白されているからである。

内海の指摘は短い。しかし、私にはここが重要に思われる。

パターンやファントムを論じる以前に、体験の出発点が「私」であることは、本当に自明なのだろうか。私たちは、つい「私」があり、その私が世界を体験する、と考えてしまう。しかし実際には、「私」という体験そのものが、もっと曖昧で、混沌としたものなのかもしれない。

以下に、補助線として宮沢賢治の一節を引きたい。

わたくしといふ現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です あらゆる透明な幽霊の複合体 宮沢賢治、『春と修羅』序 より

賢治の詩を、精神病理学の説明としてそのまま用いることはできない。しかし、ここには「私」がひとつの硬い実体ではなく、世界との交流のなかでそのつど生じる現象である、という感覚がきわめて鮮やかに示されている。

「私」は、孤立した個体として閉じているだけではない。水や風や光や記憶や言葉、他者の視線、身体の感覚、世界の配置と接続しながら、そのつど輪郭を与えられている。

そう考えるなら、「死んだことになっている」という発話の不気味さは、単に生と死が逆転したことにあるのではない。むしろ、「私」という体験の輪郭が曖昧になり、一人称の私から派生した三人称の私が、私の外部でひとつの扱いを受けていることにある。

ただし、ここで扱っているのは、賢治の詩のような宇宙的な自己拡張ではない。むしろ、その逆である。自己が世界へひらかれるのではなく、自己から派生した自己が、自己の外部で処理され、一人称の私はそれをなすすべもなく見ている。

結語

私は当初、この発話を生/死のパターン逆転として理解しようとしていた。

しかし、今では少し違うように感じている。 「死んだことになっている」という発話の核心は、死そのものではなく、「ことになっている」という形式なのではないか。そこでは、一人称の私はなお「どうして」と問い続けている。にもかかわらず、その一人称の私から派生した三人称の私が、どこかで「死んだもの」として処理されている。

ここで外部化されているのは、私の行為ではない。私そのものである。

安永の理論は、この異様さを理解するための強力な道具であった。今も重要な理論として私の中に留まっている。

私はこの理論を地図代わりに、精神病理学の山岳を登っていた。山頂を目指していたはずが、途中でホワイトアウトした。ようやく視界が開けたと思ったら、山頂だと思っていた場所は、どうやら稜線に過ぎなかった。遠方には、さらに高い山が見えている。

「どうして私が死んだことになっているのか」

この問いは、いまも残っている。けれど、その残り方は以前とは違う。

わからなさが依然としてある。だが、そこには少しだけ心地よい風が吹いている。私は、少しだけ高いところにたどり着いたのかもしれない。