パターン<急>
前回のあらすじ
筆者は臨床で患者に「なぜ自分が死んだことになっているのか」と問われ、単なる訂正では届かない違和感に直面した。 そこで安永浩のファントム空間論へ進む前提として「パターン」を導入する。パターンとは、生/死・自/他のように互いを要しつつも、前項が後項を支える非対称な二元関係で、順序の逆転はできない――この枠組みであの発言を捉え直す準備を整えた。 本章ではようやく逆転の成立を具体に追う。
強度・距離・空間
安永のいう「パターン」とは、相対的不可欠性と非対称性に基づく一対のカテゴリーと定義される。非対称性とは、前項の公理的自明性と、後項の論理的従属性を要するものであった。 前項をA、後項をBとし、以後、あるパターンを「A/B」と記述する。またこの記事ではパターンを安永が定義した概念として、今後括弧に入れずに用いる。
彼は、パターンにはそれぞれ「強度」があると考えた。いわば体験の強さである。光の眩しさや鼻の曲がるような臭さ、体が焼けるような苦しさ、天にも昇るような快楽、といったものである。この強度をA,Bそれぞれに対してa, bと称することにする。 こうすることで、a、bの大小を論じることができる。例えば、生と死のパターンA/Bの強弱について考えた時、溌剌とした生命の躍動感が感じられれば、aはとても大きく表せる。同様に、死に近づく体験、死への切迫感が強ければ、bは大きくなる。 しかしながら、前の記事でも、前述した通り、パターンには揺るぎない大原則がある。 これを数式で表せば、a>bとなる。生と死の体験がどちらも等しい場合はa=bとなるが、これは非常に強い緊張状態である。 かろうじて私たちが自身の世界を矛盾なく説明できる臨界点である。 なぜ緊張状態なのかといえば、次を考えてもらえれば明快だと思う。 a=bの場合、私が「私」であると感じる体験と、「他者」だと感じる体験が等しくなるということは、「自他」の境界に限りなく近接し、ややもすればa<bになりかねないからである。原則からして、決してa<bになってはならないのである。 a<bであれば、繰り返すが体験の出発点が「他」や「死」となってしまう。
等号を含めて、以上の原則を改めて表記すると、 a≥b ——① と表すことができる。
また、彼はaとbの取りうる範囲を次のように仮定した。 a≥0, b≤K (Kは体験し得る最大の強度) ——②
①を図示すると、以下のように表すことができる。

縦の軸は強度b、横の軸は強度aに対応する。b軸は下にいくほど大きくなり、a軸は右にいくほど大きくなることを表す。 もちろん、2軸が直交するところが原点である。そして、図のように、原点から右下にのびる直線は、a=bの線として示すことができる。 中学で習う y=x の一次関数のグラフを上下反転したものと考えてもらえればよい。
すると、a>bの領域は灰色で塗りつぶしたところになる。ゆえに、a<bはa=bをまたいだ反対側の領域である。
このような図を使うことによって、これまで論じてきた、パターンというものがなんとなく2次元で表せるようになる。
だからなんなんだ、という指摘があるかもしれないが、彼の理論を理解するという試みをしている以上、このような泥臭いことをせざるをえない。実のところ、「精神の幾何学」にある図はひどくわかりづらい。
彼の頭が良すぎるせい、と考えるほかないが、一つの図に盛り込む情報量が多すぎることが問題と私は思っている。 その図が以下のものである。なんだこれは!と思うのは自然だと思う。

図にある線分MNや線分OO’は彼の理論を理解する上で大切ではあるのだが、多くの読者を置き去りにしかねないため、私はあえて大幅に省略してしまうことにする。 熱心な人のために少しだけ触れておくと、左側にある線分MNはb軸の任意の強度の2点を抽出したものであり、念のため座標で表すと、 (a, b)=(0, M), (0, N)と示せる。 ただし、N>Mであるものとする。
この2点の長さは、体験するb強度の大きさに相当すると考えていい。強度bというのは、論理的従属性をもつ強度である。 例えば、迫りくる「死」の感覚や、「他者」の存在感、眼前に先鋭化する「部分」や「量」が例にあげられるだろう。
このような「主体の強さ(a)」に抗う「対象や抵抗(b)」の大きさを、線分MNと例示することにした。ただそれだけのことである。 別の言い方をすれば、私たちが何らかの対象や感情にどれだけ捉えられているかを示すバロメータといって良い。
ただ、もう少しだけ踏み込んでみる。 このMNの大きさが仮に途方もなく大きくなったとすると、その大きさに反比例して、自分自身の心のゆとりがなくなってしまう。 この心のゆとりというふわっとした言葉を安永は「体験距離」と呼んでいる。 より正確な表現をすると、「今の体験の強度」が、「最強限界の体験強度」に比べてどの程度弱いか(換言すれば最強限界までにまだどの程度の余裕があるか)ということを「体験距離」と定義している。以下に彼の言葉を引いておく。
物理的距離は無限遠であっても、万感の思いをこめて眺める月は、体験的に極めて近い距離にある。また眼前三〇センチメートルの物理的距離にあると私の知っている白熱電球に対して、まぶしさに耐えかねて私が目をつぶらずに居られないとすればそれは体験距離ゼロだったのである。しかし目をつぶってしまえばその刺戟量はゼロにひとしい。すなわち体験距離の方は無限遠となる。このような例から、両者のあり得る関係はわかるであろう。
この感覚は皆さんにもご理解いただけるのではないかと思う。さらに続けよう。
このように直接われわれの体験を包みみたしている目に見えない肉体のような空間を、私は「ファントム空間」と名づけている。従って体験距離のことも「ファントム距離」と呼ぶことがある。ファントムの名は、医学上の述語「幻影肢」 phantom limb から思いついたものである。これは切断された肢体の旧位置に、まるでその肢がなお実在しているとしか思えない実感的幻覚を感じる、という現象を指している。
嫌な他人の存在が大きく感じられるほど、自分の気持ちに余裕がなくなる。物質や部分の存在感が大きく感じられると、主体はよりプレッシャーを感じる。まだ訪れぬ行楽地への思いを募らせ、旅行の前日を眠れずに過ごす少年にとって、行楽地の光景は目を瞑れば眼前に迫る。
その自明な感覚である「体験距離」と、MNの大きさが逆相関・反比例することを、図1-7の下方に示されている線分OPが(一応)表していることになっている。なお、MNとOPにある楕円は、著者なりに意味を込めているが、全体の理解を妨げかねないためここでは省略する。 さらに、a=bの図とは全く異なる一次元(別次元)の図を、一つの図に詰め込んで並列表記していることと、線分MNと線分OO’が対応していることが直感的にわかりにくい。彼の主張である、bの強度が大きくなることで、主観的な「体験距離」が小さくなることを図だけで理解することは到底困難である。
ここまで、私はa<bの逆転は決してあってはならないと述べた。 しかし、逆転は生じる。
どうして私が死んだことになっているんですかと。
のんびりと次回にご期待ください。