前回の続きだ。 まずは「パターン」の話をしたい。実存的二元論と括弧付きで述べたが、実存何某は早速忘れてもらってよい。

かつて、20世紀前半に、 「世界には、どうやら対になるカテゴリーがある。それは、お互いに欠くことができないが、入れ替えることもできない関係である」 「しかも、各対の片方は前提条件として存在し、もう片方は、前者があってはじめて成り立つものだ」 ということを考えた哲学者がいた。オズワルド・ステュワート・ウォーコップ(Oswald Stewart Wauchope:以下、ウォーコップ)という。

この哲学者は、いわゆる哲学史で知られるような人物ではない。 英国で生まれ、ケンブリッジ大学を卒業し、「Deviation into Sense」という著作を残したこと以外は、生年も没年も不詳で、謎に満ちている。幻のポケモンよりも幻の存在といえよう。

彼の著作が知られるようになったのは、深瀬基寛という英文学者によって、『ものの考え方――合理性への逸脱』の題で1951年に翻訳されたことがきっかけであろう。

その深瀬の訳本を医学生の安永が見出し、のちの「空間論」への着想を得るようになったのだが、元をたどると、ウォーコップという幻のポケモンの哲学が源泉となっているのだ。

冒頭で述べたウォーコップの考えは、まさしく安永が「パターン」と呼称したものである。

例えば、「生と死」「質と量」「全体と部分」、そして「自と他」という対となるカテゴリーをいう。

このような組み合わせは他にもあるが、代表的なものを考えると、「パターン」を理解しやすい。

はじめに、パターンの定義を載せる。 参照しながら、以下の例を見てほしい。


『パターン』の定義

一対のカテゴリーであって、

(1)〔相対性不可欠性〕  その両項は単独では意味をなさず、互いに他項を必要とする(一対としてのみ存立する)という意味において相対的である。

(2)〔非対称性〕  しかしこの相対性は、(たとえば右と左、男と女等々のような)平等に互換的な相対性ではない。(「右と左」的相対性を平面上の事象とすれば)いわば立体的な、次元の歪みを伴った非対称性がそこにはある。

 その非対称性は次のように一般化し得る。

 (i)〔前項の公理的自明性〕  これら各対の前の項は、公理的に、頭から、「それ」から出発するしかないものである。それによってしかわからないし、またそうしさえすればわかる――わかりあえるものである。各人が自らの主観を、本当に生かして出発しさえすれば。(人間はたまたま、皆似たような体験構造をもっているのだから。)そうしさえすれば各対の後の項は、それにぶつかり、抵抗し、支えるものとして、おのずから体験の中に現れ、理解される。

 (ii)〔後項の論理的従属性〕  しかしこの順序を逆にはできない。後項を第一所与として出発することはできないし(了解不能)、ましてや「それ」から前項を理解可能にすることもできない。というのは、もし体験の中に後項があるならば、前項は論理的必然性をもって前提されていた、といわざるを得ないからである。(「他」を意識し得たとすれば、その前に「自」があるはずである。「部分」を意識し得たとすれば、その前に「全体」があるはずである……。)

 他方、体験の中に前項があるならば、後項もやはり必ずあるのだが、それは今と同じ理由によるのではない。後項は、いわば前項(の作用)がそれを生じさせるが故に、そこにある。それは前項に対し、条件的偶然性においてある。(「何か」はなければならないが、「特定のどれか」でなければならないということはない、という意味で。)

 そこで後項のあり方には一般に「多」性、不定性があるが、前項の方は、結局さかのぼって唯一となる「自」性(出発点としての意識の「一」に一切が帰着する、という潜性をもつ)。

 このような対のカテゴリーを『パターン』と呼ぶ。このような対の前項をA、後項をB、そのような関係をA/Bと一般記号化して表示する。


「生と死」について、気楽に考えてみよう。

まず、私たちは生きていないと何も始まらない。これは比喩ではない。生きているからこそ、死に向かっていく。 生きていることと死ぬことは一つのセットではあるが、死ぬという体験からスタートすることはできない。 私たちはいつか死ぬことを知っているが、「俺、死んだことあるよ」という人間はいないのだ。

必ず、生から死という一方的な川の流れに従う。逆流することはありえない。

別のカテゴリーを考えよう。

「自分」がいれば、必ず「他人(自分ではないもの)」がある。 「自分ではないものがある」という体験・気づきは、必ず「自分」がいてこそ成立する。「自分」が前提にないと、「他の存在」を定義することはできない。

「自分」だけが存在することはありえない。一人称を使わないではいられない。「あなた」「彼・彼女」と呼ぶときは、常に「私」から出発している。

他にも考えてみる。

「全体と部分」。 部分を認識するには、全体が先になければならない。部屋の間取りを考えるとき、居間や書斎を意識するということは、すでに部屋全体を考えているということだ。 「質と量」。 ものの量を認識するには、そのものが何なのか、質的な理解がなければならない。 何かがどのくらい暑いとか、このくらい寒いとかわかるのは、それを感じるものの質が先んじて既に何かわかっているからである。

予想される反論に、「女と男はパターンではないのか」というものがある。 確かに、男女は一対のカテゴリーではある。しかし、男は女から出発するではないか、女がいなければ男はいないではないか、と。

これは生物学的な因果律としては正しい。しかし、今論じているのは「了解の論理的順序」、すなわち「体験・物事を理解するための順番・法則」である。 この理屈において、男女は不適切である。男女は互換性があり、対称的である。 たとえ男が女から生まれたとしても、生まれた瞬間から男は「私」として出発する。仮に女が生まれたとしても、体験の出発点は「私」でしかない。互換性があるというのは、その点である。入れ替え可能なのだ。

「パターン」には非対称性があることを感じ取ってほしい。 したがって、「左右」も同じくして「パターン」とはいえない。

お互いに欠くことができず、かつ階層構造をもつ組み合わせが、パターンといえよう。 それは今、この瞬間に、私がこの世界を組み立てるために、決して逃れることのできない論理的順序でもある。

安永は、以上にあげたような前者と後者の関係を、それぞれA、Bと呼称した。そして「AB」と合体させて表記したものを「パターン」と呼んだ。 こんなことを知って一体何になるんだ、という意見がありそうだ。今までの説明は何なのだというお叱りがあるかもしれない。

しかしながら、このパターンの説明をしておくと、 「どうして私が死んでいることになるんですか!」 という発言に対して理解ができるかもしれないのである。

「私が死んだことになっている」と述べた内容が、果たしてA→Bの関係になっているだろうか?

次回はその内容をより考察してみたい。