パーソナリティの考古学 (II)
前回のあらすじ
前回は、「人格」と「パーソナリティ」という言葉の関係を手がかりに、パーソナリティ症をめぐる混乱の入口を確認した。 辞書的には両者はほぼ互換的であるが、精神医学でいうパーソナリティ症は、日常語でいう人柄や性格の問題ではない。 その古層として、K. シュナイダーの「精神病質パーソナリティ」の定義を参照した。そこでは、異常パーソナリティは平均幅からの偏奇とされ、本人または社会に苦悩をもたらす場合に精神病質パーソナリティとして切り出される。 しかし、その概念には「価値基準ではない」としながら社会的基準を含むこと、また持続的でありながら可変的なものとしてパーソナリティを捉えること、という二つの緊張が含まれていた。 これらを踏まえて、現代の診断体系がこの緊張をどのように処理しようとしているのかを考えてみたい。
とある人物類型
その前に、まずはパーソナリティ症の理解を助けるために架空の事例呈示を試みたい。
以下は、精神病理学的考察のために構成した完全な架空事例である。特定の実在人物、医療機関、発信者、団体をモデルにしたものではない。するわけがない。
事例は中年期の人物。日本国籍。もともとは身体医学を中心とする診療領域に従事していたが、臨床経験を重ねるうちに、患者の訴えの背後にある心理的・社会的要因に関心を持つようになり、のちに精神医学領域へ軸足を移した。自身が開示する限り、進学校から超難関と評される国立大学の医学部に進学し、卒後は同大学院で医学博士を取得した。所属してきた医療機関の多くは業界で知られた有名病院であり、診療部長を歴任したこともあった。盤石なエリート街道を歩んできたと言っても過言ではない経歴であった。現在は都市部で小規模な医療機関を運営し、診療のかたわら、実名と顔を出してインターネット上で精神医学やメンタルヘルスに関する解説を行っている。
本人は、専門職としての正統性に強い関心を持っていた。資格、学位、所属歴、研修歴、論文、制度上の認定などを重視し、「十分な訓練を受けていない者が専門領域について語ることは、患者に対しても学問に対しても不誠実である」と考えていた。配信や文章では、診断基準、法制度、薬物療法、精神医学史などを詳細に扱い、文献や制度上の根拠を示すことを好んだ。その内容はしばしば正確で、視聴者からは「他の発信より信頼できる」「曖昧な話をしない」と評価された。
一方で、本人の語りには、他の発信者や同業者への批判がにじんだ。名指しは避けるものの、「肩書きだけで専門家を名乗る人」「臨床経験だけで学問を語る人」「制度を理解せずに精神医学を説明する人」といった表現を用い、暗に特定の立場を低く評価することがあった。本人にとってそれは攻撃ではなく、専門性を守るための啓蒙であった。しかし、周囲からは「厳しすぎる」「資格や経歴へのこだわりが強すぎる」「関わると面倒になる」と受け取られ、次第に距離を置かれるようになった。
SNS上で炎上したこともあった。ある発信で、流行している心理学的概念の使われ方を「医学的に粗雑である」と批判したところ、複数の同業者や近接領域の専門職から反論が寄せられた。本人は当初、冷静に対応しているつもりであったが、批判的な投稿を一つひとつ読み込み、数日後には長時間の反論動画を公開した。動画では、相手の発言を引用しながら、用語の誤用、制度理解の不足、専門的訓練の不十分さを詳細に指摘した。本人は「個人攻撃ではなく、専門性の問題を論じている」と述べたが、周囲には強い反撃として映った。また、著名人が病名を公表したり、何らかの事件が報道されたりすると、本人は「専門家として解説する」と題して、病名の説明や報道内容に基づく解説を行うことが少なくなかった。そこには一般論として有用な部分も含まれていたが、診察に基づかない推測が混入することもあった。職業倫理に抵触するのではないかという指摘に対して、本人は「あくまで精神障害に関する総説を試みているにすぎない」と退けた。しかし内心では強く動揺していた。平時に掲げる厳格な専門性と、自身の発信のあり方との矛盾を指摘されることに、本人はとりわけ敏感であった。批判的な言及者をブロックすることは、本人にとって自己防衛であると同時に、相手を議論の場から退けたという小さな勝利でもあった。
その後、本人は日常的に自分の名前、運営する医療機関、発信内容、資格に関する言及を検索するようになった。批判的な投稿は保存し、発言者の経歴や資格を確認した。本人はこれを「誤情報への備え」と説明していたが、批判を放置すると、自分の立場や名誉が少しずつ侵食されていくように感じていた。沈黙は成熟ではなく敗北であり、反論は自分の正統性を守るための義務であった。
診療場面では、説明は丁寧で知識も豊富であった。丁寧過ぎるくらいでもあった。患者から他院や他職種の助言が持ち出されると、その内容だけでなく、発言者の資格、経験、所属、専門性を確認しようとした。相手の正統性が不十分だと判断した場合、その助言は暗に退けられた。患者から「前の先生の方が話しやすかった」と言われた際には、表面的には冷静に応じたが、その後はやや距離を置いた対応となるか転医を促す振る舞いをした。
ここで重要なのは、この人物が誰であるかではない。むしろ、このような人物像が容易に想像できてしまう現代の環境だろう。読者の中には思い当たる節があるかもしれないが実はこのような架空事例を作成することは思いの外容易くて、しようと思えばいくらでも生成できる。さて、この人物をAとしよう。断っておくと、Aを直ちにパーソナリティ症の「症例」と呼ぶことは決してできない。そもそも診察されておらず(診察しようがない)、パーソナリティ機能の障害を疑わせる振る舞いはみられるものの、その広がりや持続性、重症度は十分に示されていない。ここではまず、現代の専門職社会に存在しうる架空の人物像として提示した。
では、何が問題なのか。なぜ私はAを精神医学の対象に挙げたのか。この架空事例を手がかりに現代の診断体系を見直してみたい。
類型を問う前に
Aの記述を読んで、すでにいくつかの診断名を思い浮かべた読者もいるだろう。自己愛性、猜疑性、強迫性。なるほど、いずれの特徴も見いだすことはできそうだ。もちろん思いつかなくて構わない。 自らを精神医学の正統な担い手とみなし、資格や経歴によって自己の価値を確かめようとする点には、自己愛的な性格がうかがわれる。批判を単なる異論としてではなく、自らの名誉や地位を侵食する行為として受け取る点には、猜疑的な傾向がある。資格、制度、用語、文献の正しい配列にこだわり、曖昧さや例外を許容しにくい点には、強迫的な性格を認めることができる。資格を重視することは精神障害ではない。自分に向けられた批判に反論することも、それ自体では病的ではない。エゴサーチはありふれた行為だ。SNSで他者をミュート・ブロックすることに至っては、現代社会ではごく日常的な行為である。弁護士を通じてプロバイダに開示請求することももはや珍しい行為とも言えない。Aの振る舞いを不愉快に感じる者が多いとしても、それだけでAを精神医学の対象とすることはできない。ここが油断ならないところである。「めっちゃ優秀だけど、関わるとなんかやばいらしい」といったいかにも雑で曖昧な描写が、かえってその人物をうまく説明してしまうこともあろう。
ここで自己愛性パーソナリティを始めとする三つの診断名を並べても、肝心なことはまだ何も明らかにならない。もし仮にAを診察する機会があって、誰かが教科書的に診断を下すとしても、ICD-10であれば「F61.0 混合性パーソナリティ障害」あるいは最も優勢な類型を主たる診断名にするだろう。ただ、Aの事例を作成するにあたり、敢えて複数の特性を均等に散りばめたため、どれが優勢かというと決してはっきりしないはずだ。Aをキメラと呼ぶと一気に令和の怪物じみてしまう。もっとも、これはAを怪物に見立てるためではない。よって架空事例であっても、複数の類型を継ぎ合わせなければ一人の人物を記述できないこと自体が、類型診断の限界を示している。したがって、問われるべきなのは、Aがどの類型に似ているかではなく、そのパーソナリティのあり方が、自己および他者との関係をどの程度損なっているかであろう。
そこで私は現代の二つの診断モデルを紹介したい。世界保健機関によるICD-11のパーソナリティ症診断要件: World Health Organization, 2024と、DSM-5: American Psychiatric Association, 2013に収載された代替モデル、すなわちAlternative DSM-5 Model for Personality Disorders(AMPD)である。DSM-5にすでにパーソナリティ症の診断基準があるではないかという指摘は至極尤もである。が、現在ある診断基準は類型を論ずるDSM-IVのものとほとんど変わりがない。なぜかと問われれば、要するに、DSM-5は旧来の類型診断を捨てきれず、従来の類型診断を第2部(Section II)の正式な診断基準としてほぼ維持した。新しいモデルは提案されたものの、正式な診断基準の座を得られず、第3部(Section III)に留め置かれたのである。
ICD-11とAMPD両者に共通するのは、少なくとも診断の入口を「何型か」という類型判定に置かないことである。先に問われるのは、パーソナリティ機能がどの程度障害されているかであり、その後に、どのような病的特性がその障害を形づくっているかが記述される。遠回りしてばかりで恐縮だが、診断基準の説明をするうえで、「機能」の話をしておきたい。
パーソナリティ機能
AMPDやICD-11の説明ではパーソナリティ機能は「自己機能」と「対人関係機能」に二別されるとし、これらの障害を診断の中心に置く。パーソナリティを症状の集合ではなく、自己と他者を組織する構造として把握する試みは、K.ヤスパース(1883-1969)の人格論やO. カーンバーグ(1928-)ら精神分析的人格構造論のなかに前史をもつのだが、自己―対人機能モデルは2011年前後のDSM-5の改訂過程で定式化したと考えるべきだろう。もちろん、これは単一の学説が直線的に発展したという意味ではない。
「自己機能」と「対人関係機能」を具体的に説明するため、ICD-11の形成過程で示された観察項目を、便宜上、次のように整理してみよう。 なお、以下の短い名称は、ICD-11に公式の下位尺度名として置かれたものではなく、本稿での理解を助けるために説明文を要約したものである。
自己機能
・「アイデンティティ(Identity)」 自分が何者であるかについて、時間や状況が変化しても、まとまりと一貫性のある感覚を保てるか。
・「自己価値(Self-worth)」 自分を価値ある存在として、全体として肯定的かつ安定して感じられるか。
・「自己像の正確さ(Accuracy of self-view)」 自分の特徴、長所、限界を、どの程度歪めず現実的に捉えられるか。
・「自己方向づけ(Self-direction)」 自分は何を目指すのか。現実に即して目標を選び、実行し、必要に応じて修正できるか。
対人関係機能
・「関係への関心(Interpersonal engagement)」 他者との関係そのものに関心をもち、その関係へ関わろうとするか。
・「他者視点の理解(Perspective-taking)」 他者の視点を理解し、その視点が相手にとってもつ意味を認められるか。
・「親密性・相互性(Intimacy and mutuality)」 親密で、双方にとって満足できる相互的な関係を築き、維持できるか。
・「葛藤処理(Conflict management)」 関係に葛藤が生じたとき、それを調整し、必要であれば関係を修復できるか。
上記は私の思いつきでもなければ、機能がそれぞれ四つあると発見されたわけでもない。研究者らが複数の理論と臨床尺度をレビューした結果、パーソナリティ機能は自己と他者という構造にかなり収束されると判断した。異なる理論や臨床尺度の共通部分を診断用に圧縮した合議的なモデルであると今のところ言えよう。精神分析や対象関係論をはじめとする複数の異なる理論を比較すると、用語は違っていてもパーソナリティとは自己をどのように組織しているか、他者をどのように経験し、関係を築くかという問題が扱われていた。この点は非常に興味深い。異なる過程を辿っていたらいつしか同じ場所に行き着いていた、という感じだろうか。なお、AMPDのA基準(Criterion A)では、自己機能に関して「アイデンティティ」と「自己方向づけ」の二つ、対人関係機能は「共感」と「親密性」の二つ、計四領域を手がかりとしてパーソナリティ機能障害の全体的水準を評価し、障害なしの0から最重度の4までの5段階に位置づける。
さて、パーソナリティ症の中核病理が自己機能障害および/または対人関係機能障害であることを確認したところで、パーソナリティ症の診断基準は次のようになる。以下は診断要件を筆者が要約し、諸家の専門用語を参照しながら邦訳したものである。
以下に診断要件を掲げる。本文の流れを妨げないよう、詳細は折りたたんでいる。
ICD-11の診断要件を表示する
ICD-11におけるパーソナリティ症の診断要件
パーソナリティ症の診断には、以下の特徴が必要である。
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自己機能および/または対人関係機能に、持続的な障害がある。
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その障害が長期間持続している。診断要件では、おおむね2年以上が例示されている。
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障害が、認知、感情体験、感情表出、行動における不適応的なパターンとして現れる。不適応的とは、たとえば柔軟性に乏しいことや、十分に調整されていないことを指す。
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そのパターンが、特定の人物や役割に限定されず、複数の個人的・社会的状況にわたって認められる。
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薬物・医薬品の直接的影響や離脱によるものではなく、他の精神・行動・神経発達症、神経系疾患、その他の医学的状態によって、より適切に説明されない。
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本人に相当な苦痛をもたらしているか、個人的、家族的、社会的、教育的、職業的、その他の重要な生活領域に有意な機能障害を生じている。
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そのパターンが発達段階として適切なものではなく、社会的・文化的要因や社会政治的葛藤によって主として説明されるものでもない。
以上を満たしたうえで、パーソナリティ症の重症度を軽度、中等度、重度のいずれかに評価し、必要に応じて特性領域およびボーダーラインパターンを付加する。
(World Health Organization, 2024)
AMPDの一般診断基準を表示する
AMPDにおけるパーソナリティ症の一般診断基準
A.パーソナリティ機能に有意な障害がある。
パーソナリティ機能は、以下の四領域から評価される。
自己機能
- アイデンティティ
- 自己方向づけ
対人機能
- 共感
- 親密性
診断には、原則として少なくとも中等度以上の機能障害が必要である。
B.一つ以上の病的パーソナリティ特性領域、または特性面が認められる。
C. パーソナリティ機能の障害と病的特性の表出は、比較的柔軟性を欠き、広範な個人的・社会的状況にわたって認められる。
D. パーソナリティ機能の障害と病的特性の表出は、時間的に比較的安定しており、その始まりを少なくとも青年期または成人期早期まで遡ることができる。
E. その状態は、他の精神疾患によって、より適切に説明されない。
F. 薬物・医薬品その他の物質の生理学的影響、または他の医学的状態だけに起因するものではない。
G. その人の発達段階や社会文化的環境に照らして、通常の範囲にあるものとして、より適切に理解されるものではない。
(American Psychiatric Association, 2013/2022)
両モデルとも、単に奇異な特性や周囲にとっての扱いにくさを認めるだけでは、パーソナリティ症とは診断しない。パーソナリティ機能の障害に加え、その持続性、広範性、発達経過、生活上の影響、他の疾患や物質によるものではないことを確認する必要があることを理解いただければ良い。
二つの苦悩は何処へ
冒頭の議論に戻ろう。かつてシュナイダーは、異常パーソナリティを平均幅からの偏奇とし、その異常性のために本人が苦しむか、社会が悩まされる場合に、精神病質パーソナリティと呼んだ。 現代の診断要件を眺めても、この表現はそのまま残されていない。しかし、その問いが完全に消えたとも言い難い。むしろ、二つの苦悩はいくつかの要素へ分解され、診断可能な言葉へ組み直されたと考えるべきだろう。
「本人が苦しむ」という側面は、主観的苦痛、自己機能の障害、そして個人的・社会的生活における機能障害として捉え直されている。もっとも、本人が自分のパーソナリティを問題と認識している必要はない。自分は正しいと確信し、問題の原因をもっぱら周囲に求めている場合でも、自己機能や対人関係機能の持続的な障害があり、重要な生活領域に有意な支障が生じていれば、パーソナリティ症の診断要件を満たしうる。
一方、「社会が悩まされる」という基準は、より慎重に扱われている。 周囲から嫌われていること、迷惑がられていること、社会通念に反していることだけでは、精神障害とは診断できない。さもなければ、反抗的な者、少数者、社会規範から外れた者を、社会の側の価値観によって病理化することが可能になってしまう。これではいけない。
現代の診断体系が問うのは、社会がその人物を好ましく思うかどうかではない。その人物が他者を独立した主体として理解し、相互的な関係を形成・維持し、葛藤を調整することができるかである。そして、その障害が家族関係、社会生活、職業生活などに、どの程度持続的かつ広範な支障を生じさせているかである。
したがって、シュナイダーの二つの苦悩は、現代の分類へそのまま移されたわけではない。「本人の苦悩」は主観的苦痛と自己機能および生活上の機能障害へ、「社会の苦悩」は対人関係機能の障害とその心理社会的帰結へと、分解し再構成されたということになるだろう。 社会からの偏奇や平均からの逸脱ではなく、その人物のパーソナリティが自己と他者を扱う仕組みとしてどの程度機能しているか。その障害がどれほど広がり、生活を損なっているか。現代の分類は、この問いによって精神障害と人物評との境界を引き直そうとしている。
もっとも、この翻訳によって価値判断が完全に消えたわけではない。どの程度の対人摩擦を機能障害と呼ぶのか。本人が問題をすべて外部へ帰属している場合、誰の評価を採用するのか。現代の分類はシュナイダーの問題を解消したというより、機能と重症度という言葉によって、問題の所在をいくらか限定したのである。他にも、類型を廃したはずの体系に、ボーダーラインパターンという修飾語が例外的に残されている。これについては別稿で扱うが、診断基準が改められたからといって万事解決するわけではないのだ。
持続性と可変性について
また、シュナイダーはパーソナリティを持続的でありながら可変的なものとも説明をしていた。この可変性を、そのまま現代的な治療可能性と同一視することはできない。まず意味しているのは、パーソナリティが固定された物体ではなく、年齢、環境、社会的役割、生活史との相互作用のなかで異なる姿を現すということであろう。フィクションではあるが、小説「レ・ミゼラブル」におけるジャン・バルジャンはまさしく様々な外的要素によってパーソナリティ変化を呈した人物といえそうだ。姉のために盗んだパン一斤のために計19年投獄された彼は、これまで人を信じることなく、隙あらば窃盗をするなど自己機能および対人関係機能双方に問題を抱えていたとも解釈できるのではないか。偶然歓待を受けたにも関わらずミリエル司教の銀食器を盗み、間もなく憲兵に捕らわれたが、司教は憲兵に「贈ったものだ」と説明し、さらに二本の燭台を譲られたことに大いに感激したエピソードは有名であろう。この出来事を現代的な意味での治療例と呼ぶことはできないし、私はそのつもりで引いたのではない。しかし、ある他者との予想外の関係経験が、それまで固定していた自己と世界への理解に亀裂を生じさせうることを示す文学的な例とはいえるだろう。
ここで重要なのは、パーソナリティが一夜にして別物へ置き換わるということではない。長期間形成されたパターンであっても、新たな経験との相互作用によって、その表れ方や人生に及ぼす影響が変化しうるということである。 現代の診断基準も、パーソナリティ症に持続性を求めている。しかし、持続的であることは永久不変であることを意味しない。ICD-11では、そのパターンが長期間、通常は少なくとも二年程度にわたって明らかであることが求められる。診断要件を満たすほどのパターンは長期間認められる一方、その表現、重症度、生活への影響は経過とともに変わりうる。治療や成熟によって診断要件を満たさなくなることもあれば、病的特性や社会的機能障害が残ることもあろう。
したがって、持続性とは過去から現在まで同じパターンが認められることを示す診断上の条件であり、未来永劫その人物が変わらないという宣告ではない。これは治療者にとっても患者にとっても福音になるかもしれない。可変性は治療可能性そのものではないが、少なくとも治療可能性を閉ざさないための前提である。ICD-11が固定した類型ではなく、その時点での重症度と特性を記述する方式を採ったことは、この持続性と可変性の緊張に対する一つの回答とみることができよう。私個人としてはささやかに歓迎したいと思う。
「パーソナリティ困難」について
では、パーソナリティ上の問題は認められるものの、パーソナリティ症と診断するほどではない場合は、どのように扱われるのだろうかという疑問もあって然るべきだ。 ICD-11には、Personality Difficulty、ここでは仮に「パーソナリティ困難」と呼ぶ概念が設けられている。これはパーソナリティ症ではなく、精神障害にも分類されない。パーソナリティ上の特徴が、治療や保健サービスの提供に影響しうるものの、その広がりや重症度がパーソナリティ症の診断要件には達していない場合に用いられる。 困難は長期的であっても、比較的軽度であるか、限られた状況や関係においてのみ現れる。情動、認知、行動上の問題も、低い強度であるか、ストレス下で間欠的に出現するにとどまる。仕事を維持し、友人関係を築き、ある程度満足できる親密な関係を持つ能力が、全体として著しく損なわれているわけではない。 ここで注意すべきなのは、パーソナリティ困難が「周囲にとって面倒な人物」を分類するための概念ではないことである。社会が困っていることではなく、本人のパーソナリティのあり方に、臨床的に無視できないものの、障害の閾値には届かない困難が存在することを示す。ただ、ICD-11が日本で運用される際、「パーソナリティ困難」が臨床的な困難を記述する言葉ではなく、「周囲にとって面倒な人物」を評する便利な符牒として流通しないだろうか。もしそうなれば、精神障害と人物評を区別するために設けられた概念が、かえって新たなスティグマを生むことになる。この語が診断閾値を慎重に検討するための概念となるのか、それとも新たな人物評となるのかは、今後の運用に委ねられている。
次回、本稿で保留した「パーソナリティ特性」について説明を加えつつ、事例Aを見直してみよう。そして、かつて人々が幾何学の理解をユークリッドの『原論』に求めたように、私もヤスパースの『精神病理学原論』にパーソナリティの古典をたずね、治療可能性についても考えてみたい。