パーソナリティの考古学 (I)
人格=パーソナリティ
人格という言葉は存外に興味深い。大辞林を引くと、
① 人柄。品性。
② ア 個人のもつ一貫した行動傾向・心理的特性。「性格」と同義に用いることもあるが、知能をも含めたより広義の概念。パーソナリティ。
イ 自我として自己の心理的作用を統合するはたらき。
③ 道徳的行為において、自由意志のもとに権利・義務・責任を担う主体。
④ 権利・義務を有する主体。また、その主体となり得る能力。自然人と法人に認められている。権利能力。〔井上哲次郎が自伝の中で、英語personalityの訳語を相談された際、「人格」と答えたことからいう〕
とある。他方、パーソナリティを引いてみると、
① 個性。人格。
② 個人個人に特徴的な、まとまりと統一性をもった行動様式、あるいはそれを支えている心の特性。人格。
双方は互換的で循環している。人格の英訳はpersonalityであり、人格とパーソナリティはほぼ同義とされている。人格の項目④を見れば明らかなように、井上哲次郎という明治期の哲学者が人格という漢語を当てたことが由来であり、人格とパーソナリティの接続は百年程度といったところであろう。 なお、パーソナリティの子項目に「パーソナリティ障害」があり、これは次のように説明がある。
人格の偏りや異常によって自分自身や周囲に困難を生じるような障害。統合失調症や脳疾患などによる人格の変化は含めない。人格障害を改称。
従来は「人格障害」という訳語が用いられていたが、スティグマへの配慮から、2000年代前半以降、「パーソナリティ障害」という表記が広がっていった。少なくとも2003年のDSM-IV-TR日本語版新訂版では「パーソナリティ障害」の語が用いられており、2005年のICD-10日本語版新訂版でも、パーソナリティ障害関連用語を含む重要な訳語変更が行われている。さらにICD-11への切り替えに向けた病名検討のなかで、disorder を原則として「症」と訳す方針が示され、近年では「パーソナリティ症」という表記が用いられるようになっている。
これまではdisorderの訳を「障害」としてきた。これは疾患単位であるか否かをただちに意味しない。よって術語として適当ではありそうだが、「障害」のもつネガティブな面に配慮が加えられたと聞く。私は診断名の名称について主に論じるつもりはないが、もし「症」から別の名称に変える動きがあったとしたら、次はどこへ行くのだろうかと思ってしまう。
人格≠パーソナリティ
さて、私が勇気を出して今回取り上げたいのは「パーソナリティ」である。 ここからはpersonality disorderに相当する訳語は「パーソナリティ症」とする。
なぜこの話題にしたのかといえば、私の興味関心と、知識を整理する必要の両方が存在しているからである。加えて、ICD-11への移行に伴い、パーソナリティ症の診断体系そのものが変わりつつあることも大きい。そのうえで、「パーソナリティ症」の理解をややこしくしている要因は、おそらく次のようなものだ。 「パーソナリティ症」は「パーソナリティ」の障害ではない。少なくとも、日常語でいう人格や性格が悪いという意味ではない。ここでいうパーソナリティは、辞書にあるような人柄や品性とは別の水準で考えられているようだ。にもかかわらず、名称だけを見ると、あたかもその人の人格そのものに問題があるかのように誤解されやすい。このねじれが、「パーソナリティ症」という概念の理解を難しくしている。
では「パーソナリティ症」とは何なのか?という疑問が生じる。試しに手元にあるICD-10の手引きを参照すると、「パーソナリティとは斯々然々である」とは明言されていない。執筆者や訳者の妙を感じる。 せいぜい、「持続する傾向をもち、個人の特徴的な生活様式と自己と他人との関係の仕方で現れる臨床上意義のあるさまざまな状態と行動パターンが含まれる」と記されているくらいだ。 認知・行動特性が平均から逸脱・偏奇しており、この特性がしばしば主観的な悩みや社会的機能と遂行能力の問題を呈することもある、という記載も認められる。 また、DSM-5の診断基準の一つを見れば、パーソナリティ症は「パーソナリティ機能の減損」であるという。これを明快だという人もいるので、「わかる人にはわかる」のだろうが、どうも狐につままれたような気がしてならない。
精神医学上の「パーソナリティ症」を理解しようとするとき、辞書的な語義をもとにするとたちまちわけがわからなくなる。何度も探索しているのに、同じところに行き着いてしまうような感覚になる。この記事で、パーソナリティという迷宮におけるアリアドネの糸になることを目指そうと思う。糸が切れないと良いが、シリーズものとして連載を予定している。
シュナイダーの影
少なくとも、パーソナリティ症について「しばしば主観的な悩みや社会的機能と遂行能力の問題を呈する」とする記述の古層には、K. シュナイダー(1887-1967)の定義が見えているように思われる。『新版 臨床精神病理学 原著第15版』の日本語訳を参照すると、シュナイダーの定義は以下のように極めて明快である。
精神病質パーソナリティ
個人的な心的存在においては、多くの個別特徴のほかに、知能、身体的(生気的)感情・欲動生活、パーソナリティという3つの特性複合体が区別される。パーソナリティには非身体的な感情と志向、および意志が包括される。
異常パーソナリティとは、我々が考えるパーソナリティの平均幅からの偏奇である。したがって、尺度となるのは平均基準であって、価値基準ではない。
我々は異常パーソナリティの中から、本人がその異常性に苦しむ、あるいは社会がそれに苦しまされるパーソナリティを、精神病質パーソナリティとして切り離す。
異常(したがって精神病質)パーソナリティは、我々の言う意味で「疾患的」なものではない。
K. シュナイダー『新版 臨床精神病理学 原著第15版』、針間博彦訳、文光堂、2007年、p.15
主張は明確である。ここでシュナイダーは、異常パーソナリティを平均幅からの偏奇として理解し、それが本人または社会に苦悩をもたらす場合に精神病質パーソナリティとして切り出している。さらに重要なのは、それを価値基準ではなく平均基準の問題として扱い、「疾患的」なものではないと明言している点である。
なぜここまで言い切れるのか、という疑問が生じてもおかしくない。根拠はあるのか、と問われれば答えに窮しそうではある。シュナイダーの明快さは、経験的な根拠の強さというよりも、分類する線の引き方の強さであろう。彼の線ははっきりしていて、「人格が悪い」「道徳的に劣っている」という判断を排除しようとしている。ただ、何を平均とするのかは時代や文化によってかなり変化する。さらに、前置きなく「精神病質」という用語が登場したため、ここで誤解を避けるために少し迂回しておきたい。
現在の文脈で「精神病質」というと、原語の「psychopath」から「サイコパス」を想起するかもしれない。「サイコパス」という言葉はここ最近で市民権を得たように思うが、その正確な用語の理解を伴って使われているかというと首肯しかねる。「サイコパス」を試しにインターネットで検索すると、「反社会性パーソナリティ障害」に分類されることのある、特異な人格や行動パターンを持つ人を指す言葉である、とトップに出てくる。検索結果の出典が医療機関ではなく、法律事務所のホームページであるのは皮肉である。サイコパスとは共感性を欠いており、良心の呵責がない、表面上は魅力的であるといった説明がなされている。おそらくはDSM-5における「反社会性パーソナリティ症」の診断基準を抽出したものと思われるが、少なくとも、現在流通している俗称としての「サイコパス」に回収できるものではない。ではどう違うのか。もう一度、彼の主張を引用しよう。さらに、2007年に追補されたG. フーバーとG. グロスによる解説も加えたい。二人はシュナイダーを継承した精神病理学者である。
我々は異常パーソナリティの中から、本人がその異常性に苦しむ、あるいは社会がそれに苦しまされるパーソナリティを、精神病質パーソナリティとして切り離す。異常パーソナリティと精神病質パーソナリティは重なり合う。科学的に見て本質的であるのは異常パーソナリティという概念だけであり、精神病質パーソナリティという概念はその中に止揚される。そのため、我々も両方の概念を並行して用いたり、入れ替えて用いたりする。
K. シュナイダー『新版 臨床精神病理学 原著第15版』、針間博彦訳、文光堂、2007年、p.15
以下は、G. フーバーとG. グロスによる解説である。
シュナイダーは平均から逸脱したパーソナリティの変異において、「異常」パーソナリティと「精神病質」パーソナリティを区別している。「異常パーソナリティ」は上位概念であり、そこから、その異常性に本人が悩む、あるいは社会が悩まされるものが、精神病質パーソナリティとして区別される。この定義の後半部分は極めて相対的な社会的基準に従って形成されている。「精神病質」という呼称は他の多くの精神医学的概念と同様に、時間の経過とともに否定的評価を得るようになっている。しかし、「精神病質」という概念は、純粋に心理学的に、すなわち社会的側面を伴わずに定義することができないにせよ、それ自体は価値観を伴わないものである。
彼の見地によれば、パーソナリティとは、素質的で持続的な要素だけでなく、力動的で可変的な要素も伴う発展概念である。すなわち、それは個人の全般的・持続的な心的特徴として相対的に同一の定数であると同時に、時間と状況に依存し、特定の限界内で調節可能・形成可能である。人は、同じままでいる、執拗に続く、一旦決まった方向を堅持する生き物であるが、「変化する可変的存在」でもある。
K. シュナイダー『新版 臨床精神病理学 原著第15版』、針間博彦訳、文光堂、2007年、p.160
シュナイダーの著書はフーバーをして「精神医学のおそらく最後の古典」と言わしめ、その内容は歴史の風雪に耐えるものであるが、ここに私は二つの重要な緊張関係を見出す。 異常パーソナリティは平均基準であって価値基準ではないと言いながら、同時に「社会が悩まされる」という社会的基準を含んでいることがまず挙げられよう。単に「性格が悪い」のような価値判断ではないのだが、パーソナリティの偏奇により警察などの公的機関が関与するとなると、ここにはどうしても時代精神による価値判断と規範の影が射す。「社会がそれに苦しまされる」という基準が入ると、社会にとって都合の悪い人、扱いにくい人を「精神病質」と呼ぶ危険がどうしても出てくる。本人の苦しみと、社会の困り感が同じ概念の中に並んでしまうのである。もちろん、ここでただちに特定の制度や時代を同一視するつもりはない。しかし、社会が何を「迷惑」「逸脱」「危険」と見なすかは、時代によって変わる。例を挙げようとすれば枚挙にいとまがない。社会的基準を導入するということは、常にその時代の規範を概念の内側へ招き入れる危険を伴う。社会の中には下位文化があり、そこで評価される行動様式が、一般社会では病理化され、犯罪化され、逸脱とみなされることがある。「社会が悩まされる」という基準は、見かけほど中立ではない。
もう一つは、パーソナリティを「持続的定数」のように扱いつつ、「可変的存在」でもあるということだ。「生まれつきの性格だから変わることはない」でも、「環境で変わる」でもない。一定の持続性がありつつ、時間・状況・関係の中で変化するものだとすると、これを改めて捉え直す必要がある。まるで天気の話ではなく、気候の話をしているようである。一日の晴雨ではないが、まったく変わらない地形でもない。長く続く傾向でありながら、季節や環境によって少しずつ姿を変えるものとして、パーソナリティは考えられている。ともすると、この説明は「性格」にも同じことが言えそうである。やはり、パーソナリティとは何なのだろうか、という袋小路に行き着く気がする。ここまで論じてきて思うのは、まだまだパーソナリティの説明が全く出来ていないということだ。
次に考えるべきなのは、では現代の診断体系はこの緊張をどのように処理しようとしているのか、ということと、パーソナリティという語義をできるだけ正確に理解することなのだろう。