Series

パラノイア問題

  1. パラノイア問題 (I)
  2. パラノイア問題 (II)
  3. パラノイア問題 (III)

前回まで

これまでの記事で、「パラノイア問題」を取り上げてきた。 パラノイアは、古くから慢性の精神錯乱や狂気全般を指す用語であった。しかし19世紀後半になると、次第に語義が整理され、パラノイアは知的機能ないし思考面の障害がある一方で、情動や意志の障害は目立たないものとされた。 その過程において、心因がはっきり認められるものと、認められないものが区別された。後者は真性パラノイアと呼ばれたのだが、果たして本当に真性パラノイアは存在するのか。それは精神病なのか、あるいは人格発展とみるべきなのか。この問題が浮上した。 これがパラノイア問題である。
それは、了解とは何か、精神疾患とは何かを揺さぶる重要な問題であった。 しかし現代では、パラノイアは妄想性障害に吸収され、用語そのものもほとんど見られなくなった。もはや古典的とも言えるこの類型と問題は顧みられることもなく、巷の医局で話題になることもない。 そして結論も出ていないまま、時が過ぎた。 前回、私は精神科医ガウプによる、パラノイア問題における重要な精神鑑定例を紹介した。そこでガウプは、パラノイアを、特定の人格構造と特定の体験から心理的・了解的に発展するものとして捉えていた。 しかしながら、本当にそれで良いのかという懸念を私は残した。諸家によれば、パラノイア問題には結論が出ていない。パラノイアは心因によって了解的に理解できるものではなく、むしろ病的過程ではないのか、という主張もある。複数の辞書を引くと、「内因性」と書かれているものもあれば、諸説あるとするものもある。専門書を読んでも、煙に巻いたような表現が少なくない。

これまでそのような話をしてきたが、ここで改めてパラノイアとは何かという問いに立ち戻り、それに対する私見を述べたいと思う。

パラノイア・パラノイド・パラフレニー

ここでいったん、パラノイアという語の周辺を整理しておきたい。

問題が難しいのは、病像そのものが難しいからだけではない。その病像を名指す言葉もまた、歴史の中で少しずつ意味を変えてきたからである。

実際、パラノイアについて調べていると、いくつか似た用語に出会う。本来はシリーズの最初に説明すべきであったかもしれないが、導入の段階で読者を混乱させることは避けたかった。そこで、この段階であらためて整理しておきたい。

まずは以下の表を見ていただきたい。

表 クレペリンによる早発性痴呆、パラフレニー、パラノイアの定義
思考・知的機能面の障害 感情と意志の障害 現代の分類
早発性痴呆
(破瓜病、緊張病、妄想型、…)

(早期から目立つ。ただし妄想型では遅れてあらわれる)
統合失調症
パラフレニー
(末期まで目立たない)
統合失調症
パラノイア
(妄想体系に限局し、他は比較的明晰)
× 妄想性障害

パラフレニーという術語がある。これも現在ではほとんど顧みられることのない類型であるが、かつては早発性痴呆とパラノイアの中間形態を指すことが多かった。

もっとも、この用語の用法は国によって異なる。ドイツでのパラフレニーは、クレペリンのいう「幻覚のある妄想性障害」を指す。思考・知的機能面の障害に比べて、感情や意志の障害、そして人格水準の低下が末期まで目立たない点が特徴であるとされた。 一方、フランスでは、パラフレニーは空想妄想を指すことが多い。すなわち、妄想の規模が大きく、空想的な内容をもつ妄想性障害である。この記事では、主にドイツでのパラフレニーを念頭に置く。 独仏でこのような違いが生じた背景には、学派の違いや、20世紀前半の歴史的事情も関わっているのかもしれない。いずれにせよ、同じ語であっても、国や学派によって指し示す病像がずれている点には注意が必要である。 私の知る限り、現在パラフレニーという術語を耳にする機会は、遅発性パラフレニーという類型を説明するときくらいである。それすらも、実際にはほとんどない。 ICD-10では、妄想性障害の下位項目に paraphrenia の名がわずかに残っていた。しかしICD-11では、正式な診断カテゴリーとしてこの名称は採用されていない。時代の遺物になってしまったようである。 かつての早発性痴呆、パラフレニー、パラノイアはいずれも、思考・知的機能面の障害を呈するものとされた。しかし、それに加えて感情や意志の障害が生じるかどうかによって、それぞれが区別されていた。まずはそのように理解していただければよいと思う。

パラノイアは、精神疾患の一類型であると話をしてきた。 一方、パラノイド(paranoid)という言葉は、パラノイアの形容詞的用法である。したがって、「パラノイアのような」「パラノイアっぽい」「パラノイア的な」という意味をなしうる。 たとえば、パラノイドパーソナリティというとき、それはパラノイアのような人格を意味する。ただし、クレペリンはパラノイドを、パラノイアと似て非なるもの、「類パラノイア性(paranoiaähnlich)」という意味で用いた。したがって厳密には、パラノイアとパラノイドは同じではない。 しかしながら、ややこしいことに、パラノイア・パラノイドという語が英語圏に輸出されたとき、その語釈は必ずしも正確には継承されなかったとされる。 20世紀後半には、英語圏の精神科医はすでにパラノイドを、被害的、猜疑的、敵意のある、といった意味で用いるようになっていた。だが文法的には、paranoid は “like paranoia” である。したがって本来、そこで問題となるべきなのは、猜疑性ではなく 妄想性(delusional) である。 つまり、paranoid という語の根には、本来 paranoia への類似がある。したがって paranoid をただちに「猜疑的」と訳すと、そこに含まれていた妄想性との関係が見えにくくなる。もっとも、パラノイドパーソナリティだからといって、直ちに妄想をもつという意味ではない。 以前の記事で、私はパラノイアを「知性面の精神機能障害」や「持続的で揺るぎない妄想体系が、きわめてゆっくり形成されていくもの」として述べた。そこには元来、猜疑心や自己関係づけの意味は含まれていなかったのである。 非常にわかりづらいが、時代の移ろいとともに「パラノイド」に猜疑的、被害的という意味が含まれるようになり、混乱が生じてしまった経緯があるということだ。

しかし、この混乱はもはや顧みられることはないだろう。言葉の意味というのはどうやら移り変わっていくものなので、致し方ないのかもしれない。言葉の用法にはこだわりたいが。 手元にある英・独・仏語辞典を読むと、猜疑的という意味はすでに付随している。実のところ、私自身もまた、パラノイドのことを猜疑的という意味で理解してしまっていた。言葉の変化は、いつの間にか書き手自身の理解にも入り込んでいる。

問題提起

ここで、ガウプに戻ろう。彼はヴァーグナーという症例の精神鑑定をもとに、パラノイアは人格の発展、すなわち特定の人格構造と特定の体験から心理的・了解的に発展するものだと主張した。ガウプの鑑定によれば、ヴァーグナーには過敏性と誇大性が混合した性格があった。彼は強い性欲、功名心、道徳心のあいだで葛藤し、その葛藤に長く苦悩した。手淫に耽った罪悪感を過大評価し、これを深めた一方で、自身に膨れ上がる破壊衝動を制御できなかった。飲酒後に行った獣姦は忌むべき性的逸脱として「鍵体験」となり、自分自身への嫌悪と蔑視は村全体への敵意へ投影された。ここでいう鍵体験とは、その後の妄想性発展の中心に据えられる、決定的な体験のことである。自身が迫害されているという苦痛が、村人への憎悪へ転化された。忌まわしき現世から家族を抹殺することは憎悪ではなく憐憫であった。

私たちはあらゆる出会いを通じて、自分自身と相手との関係づけを行う。私たちは、他者の言葉や表情を、ただの外界の出来事として受け取っているわけではない。それらは、いつもどこかで「私に関係するもの」として感じられている。親は私を愛しているのか。友人は私を慕っているのか。隣人は私を軽んじているのか。こうした問いは、日常的な対人関係のなかで、程度の差こそあれ誰にでも生じうる。思い込みがおきることもある。ガウプの弟子であるクレッチマー(1888-1964)は心を「絶えず新たに与えられる外部刺激に対し、絶えず生起し働き続ける反応錯綜」とした。心は錯綜するのである。そして「体験が心を通り抜ける経路をはじめから終わりまで追ってゆく」ことで了解可能であるという立場を取った。

ヴァーグナーの価値づけの方向づけは疑心暗鬼である。確かに、誰しもが他人に対して疑念を向けることがあるように、これは一般的な感情の関連づけとその連鎖とみなせなくもない。ただし、彼は自分に芽生えた感情や価値を脅かすものとして、村人や他人の態度から敵対的企みや計画的陰謀を見出す。パラノイアで問題になるのは、それが単なる思い込みを超えて妄想へと至る点である。そのためには、その意味づけが、訂正しがたい「現実らしさ」の感触を帯びなければならない。ここで問題になるのは、現実を知的に判断する能力だけではない。ある意味づけが、まさに現実であると感じられる基盤、すなわち現実感情(Realitätsgefühl)の変化である。 クレッチマーは敏感関係妄想という妄想形態を提唱した。これは特有の性格として並外れた情性の豊かさ、弱さ、繊細さを呈す一方で自意識に満ちた野心と我意を示す二面性を持つ人物に生じる関係妄想のことである。無力性の不全感をベースにしつつ、そこに強力性の自尊心が潜んでいるとも言えよう。まさに教頭ヴァーグナーその人である。 敏感関係妄想を呈する人物はある困難な対人的・社会的環境におかれ、その状況下で、敏感な性格を刺激するような体験(鍵体験)をするという。これには、恥ずべき倫理的な体験や色情性の葛藤、職業上の葛藤が挙げられ、恥辱的不全感が共通している。

彼らの症例報告を読むと確かにそう思わせる説得力がある。相槌を自然と打ちながら、読み応えのある文を追っていく。まるで喉越しの良い飲み物を飲み干すように、ごくごく嚥下するのだが、どうにもこうにもすっきりしない。読み物としては抜群の火力なのだが、やはり「本当にそうなのか?」と思わざるを得ない。

非常に繊細でありつつも野心的である人物がいて、自分の罪悪感を自身の中にとどめおくことができなかったとする。獣姦という逸脱がさらに自身の非道徳を深めたとしても、銃を携えて村人を殺害しようとするだろうか?特異的過ぎないだろうか?「ある精神的なものから他の精神的な現象が生じる」いわば発生的了解をするにしても、自身が迫害されているという経験を他者への憎悪に投影し、他者を抹殺することは了解できるのか?「自身の罪悪感を自身の中にとどめおくことができない」というのも解釈でないか?さらりと投影という言葉を使っているが、これは、単に妄想の内容の解釈と説明をしていることにならないだろうか?なぜ確信の水準でその内容が成立してしまうのかという問いに答えているだろうか、という疑問が生起する。我ながら生意気で不遜だと思うが。

形式の問題

すでに統合失調症の妄想体験と、パラノイアの妄想体験で、確信のあり方(確証意識)が異なるのではという指摘がある。すなわち、妄想において問題になるのは「変なことを言ったり考えている」ことではなく、「どのようにして確信が生じるのか」という問題である。これを確証意識の問題という。H. ミュラー=ズーアという精神科医は、統合失調症の妄想(妄想知覚)は体験的事実から始まるが、パラノイア性妄想は体験的推定から始まると考えた。つまり前者は「何かが起きている」ことをすでに感じている。木村敏の言葉を借りれば、アンテ・フェストゥム的な時間性を想起させる。それが何なのかはわからないが、明証性をもって確信する。しかし後者は証明を経て確信に達する相対的確証である。「やはりそうだったのか」と。

これは私の経験からも確かにその通りだと思う説明である。統合失調症では、一次妄想である妄想気分が無媒介に出現しているが、これは外界がすでに決定的な意味を帯びて接近する体験の変質である。この変容を妄想知覚として体験し、本人は陳述する。「犬が鳴いたのは、私の死を告げる知らせだ」という具合である。犬が鳴いたのは正常な知覚体験であるが、これに異常な意味が付与される。 「駅のホームの反対側で、婦人が咳払いしたので、私が神に選ばれたのだとわかった」 といったものも挙げられる。このように啓示的でもある。 一次性の病的体験を本人なりに説明しようとしたものであり、意味の連続性が途絶えている。 妄想の出現形式はやはり、シュナイダーをして、了解可能性あるいは意味法則性の彼岸にある。そこには身体的な疾患が想定されるほかないだろうとする。

他方、パラノイア性の妄想は、段階的に、推論的に、労作的に獲得されていくことが多い。 「隣の部屋からドンドンと音がする。これはうるさくて迷惑だ。そういえば以前にもあった。隣のやつはいつだってこうやって当てこすりをする。あぁ、やっぱりこれは俺に対する嫌がらせなんだ。もう間違いない」 といった具合である。確かに本人の経験に基づいて徐々に妄想が形作られていくように思われる。ただし、当てこすりや嫌がらせという価値判断は了解できるように見えるが、確信の水準へ飛来するのはやはり了解できないのではないか。教頭ヴァーグナーの性格、生活史、屈辱、罪責、自我価値の抗争から罪責感が外界へ投影されたことは内容として理解できるが、多くの場合は「もしかして」「そうかもしれない」という被評価懸念にとどまる。反証可能性がある。現実を見つめ直す機能が備わっている。故に、疑念が妄想へ変化することには、身体的な疾患が要請される、病的過程があるのだろうと考える。

したがって、問題は妄想内容が心理的に跡づけられるかどうかだけではない。その内容が、反証可能な疑念にとどまらず、訂正不能な確信として成立してしまう点にある。ここに、単なる体験反応では押しきれない病的過程がある。

私の現時点での考察は以下の通りである。 パラノイアは、統合失調症との類似性がありつつも質的に異なる疾患である。 あたかも「体験反応性」のようにみえるが、本質は精神病(Psychosis)である点で極めて重要である。

この結論に行き着くと、さらに興味深い考察が生まれる。以前論じた「体験反応を巡って」シリーズで、うつ病を扱ったが、うつ病は心因性の抑うつや適応障害のような「体験反応性」の機能障害と混在していると述べた。予想外の結果になったが、実はうつ病はパラノイアと共通項があるかもしれない。 それはまるで「体験反応性」のようにみえて、本質は内因性疾患だという点である。

こう考えると興味がますます尽きない。つくづく先人は偉大である。やはりこうした類型を捨てるのは惜しい気がしてしまう。かといって懐古主義に陥りたくもない。そして、ガウプやクレッチマーらがどこまでも了解可能性を追い求めた態度も臨床家として忘れてはならないと思う。

パラノイア問題は、解決されなかったからこそ、なお考えるに値する問題として残っている。