パラノイア問題 (I)
はじめに
「パラノイア問題(Paranoiafrage)」という精神医学上の問題がある。これは19世紀末から提起された問題であるが、最近ではあまり話題にされなくなったように思われる。
本稿では、まず「パラノイア問題」とは何かを見定めたい。そのために、今回はまず、パラノイアという特殊な用語の意味と、パラノイア問題の歴史的変遷について、適宜文献を引きつつ整理してみたい。
パラノイアとは
パラノイアという用語を説明する前に、私たちは、いわゆる「様子がおかしい人」「どこかへんな人」をどのように理解し、どのように名づけているのかを考えてみたい。
もちろん、ここでいう「おかしい」「へんだ」という表現には、侮蔑の意図はまったくない。ここで言いたいのは、私たちのふつうの理解を超えた振る舞いをする人びと、というほどの意味である。
町なかを注意して見てみると、どこか風変わりに見える人は案外いるのかもしれない。ぶつぶつ独り言を言っていたり、奇妙な姿勢を取っていたりすることもある。言葉遣いや態度が不思議に感じられることもあるだろう。
しかし、では「おかしい」とは何をもってそう言えるのだろうか。そうした人びとは病気なのだろうか。あるいは、単に私たちの理解や常識の枠からはみ出しているだけなのだろうか。
パラノイア問題は、こうした問いにひとつの光を当てる論点であるように思われる。
まず、現在パラノイアがどのような意味で使われているかを確認しておこう。まず一般的な辞書的説明を見ると、デジタル大辞泉によれば次のようになる。
内因性の精神病の一型。偏執的になり妄想がみられるが、その論理は一貫しており、行動・思考などの秩序が保たれているもの。妄想の内容には、血統・発明・宗教・嫉妬・恋愛・心気などが含まれ、持続・発展する。偏執病。妄想症。
偏執というのは偏った考えに固執し、他人の意見を受け入れないことである。明確に内因性と言い切っているのが興味深い。
また、診断分類上の現在の位置づけも参照してみよう。しかしパラノイアという用語はもはや使われず、妄想症や妄想性障害という枠組みに包含されている。
この群の障害は、単一の妄想あるいは相互に関連した一連の妄想が、通常は持続的に、時には生涯にわたって発展することを特徴とする。妄想の内容はきわめて多様である。(中略)他の精神病理現象を欠くのが特徴であるが、抑うつ症状が時折現れたり、幻嗅や幻触が出現する症例もある。発病はふつう中年期であるが、(中略)成人早期のこともある。妄想の内容とその出現の時期は、患者の生活環境と関連することが多く、(中略)迫害妄想があげられる。妄想や妄想体系に直接関連するような行動や態度を除くと、感情、会話および行動は正常である。
ICD-10 精神および行動の障害 新訂版 臨床記述と診断ガイドライン
これらの記述からは、たとえば自分が常に他人から嫌がらせを受けていると感じている中年の人物像を例に、パラノイアをイメージしてもらうとよいだろう。
さて、私の手元にある愛読書の一つ『精神症候学 第2版』によれば、パラノイア(Paranoia)は古代ギリシア語(Παράνοια)に由来し、ヒポクラテスの時代には精神錯乱一般を指すような語として用いられていたという。
para(παρά)は「傍ら」、noia(νοια)は「知性」に関わる語であり、語源的には「偏った知性」といった意味合いになる。日本語で「偏執狂」と訳されたのも、こうした理解と無関係ではないだろう。
また、ドイツの精神科医U. H. ペータースも、辞典『Lexikon Psychiatrie, Psychotherapie, Medizinische Psychologie』(6 Aufl., 2007)において、パラノイアは古代ギリシア語で「頭がおかしい人」を指す俗語として用いられたとしている。表現はかなり率直だが、要するにこの語は、当初は広く狂気や精神錯乱を指す非特異的な用語であった。
1798年、哲学者I. カントは、身体には明らかな異常がないにもかかわらず「正気とは思えないことを言う人」に対して、「狂気」(Verrückheit)という語を用いた。これに対して、1818年、J. C. A. ハインロートは、そのような状態にパラノイアという語を当て、精神医学の用語として採用した。
より厳密にいえば、彼はこの語を、思考力の過剰な緊張による精神の不自由さと、感覚は損なわれていないにもかかわらず概念が倒錯している状態に限定して用いたようである。
ハインロート以後、パラノイアにはさまざまな下位分類が提唱された。共通していたのは、パラノイアが基本的にある種の思考障害として理解されていたことである。ただし、その意味が比較的はっきりしてくるのは19世紀後半になってからである。
カールバウムは「知的衰退のない妄想」にパラノイアを当て、クラフト=エビングもまた、知性面の精神機能障害、いわば「知性モノマニー」に対してパラノイアの語を用いた。さらにクレペリンは、1896年、パラノイアを「持続的で揺るぎない妄想体系が、きわめてゆっくり形成されていくもの」と定義した。
これらの人物の名前を逐一覚える必要はない。ただ、パラノイアという語が、漠然とした狂気一般から、徐々に限定された精神医学的概念へと絞り込まれていったことは押さえておきたい。
パラノイア問題
ところが、クレペリンはパラノイアを疾患単位として自身の教科書第4版で提唱したのち、第5版、第6版、第8版と版を重ねるにつれて、その定義を次第に狭めていった。
大づかみに言えば、クレペリンは広義のパラノイアのうち、心因が比較的明らかなものを好訴妄想とし、心因がはっきりしないものを真性パラノイアとして残した、と理解してよいだろう。
しかし、こうして定義が絞り込まれると、もともとパラノイアと呼ばれていたものの多くが心因性のものとして別に分類されることになり、「それではパラノイアとは結局何なのか」という疑問が生じる。
旧版でクレペリンがパラノイアと呼んでいたもののうち、新版では外されてしまったものがある。だが、それらこそむしろパラノイアの中心部分なのではないか、という見方も当然現れる。また、心因がはっきりしないものとして最後に残された「真性パラノイア」とは、そもそも何なのか、という問いも浮上する。
とりわけ後者、すなわち真性パラノイアとは何かという問いが、いわゆるパラノイア問題の核心である。
真性パラノイアは本当に存在するのか。もし存在するとして、それは精神疾患なのか。それとも人格の発展、すなわちその人が生きてきた過程のうちに形成された人となりの問題として理解すべきなのか。
言い換えれば、パラノイア問題とは、「パラノイアは病気なのか、それとも病気ではないのか」という問いである。
これは、ある集団を定義しようとしたときに、その中心例よりもむしろ境界例や例外のほうが、概念そのものを揺さぶってくるという事態に似ている。たとえば『ハリー・ポッター』における魔法族と非魔法族の区別を考えてみてもよい。魔法を使える者を魔法族と呼ぶとしても、その境界には例外が現れ、結局「魔法族を魔法族たらしめるものは何か」という問いに戻らざるをえない。
パラノイア問題もまた、それに似ている。ある種の妄想を示す人をパラノイアと呼ぶとしても、では何がその本質なのか、病気としての過程なのか、それとも人格的形成なのか、という問いは容易には片づかないのである。
パラノイア問題は現在も結論が出ていない。しかも学問上ほとんど振り返られることもない。しかし、学説史としては後景化して見えるこの問題は、精神鑑定における責任能力判定の実務ではなお重要である。というのも、「疾患的であるのか、ないのか」という区別が、量刑や心神喪失の判断に大きく関わるからである。
次回は、これまで詳しく触れなかった「妄想」について取り上げる。また、パラノイア人なる用語の説明も加えながら、パラノイア問題をさらに詳しく見ていきたい。