鏡の中の自己
オーギュスト
急な用事ができて、都心某所で時間を潰す必要に迫られた。前もって目をつけていた書籍を大型書店でしぶとく見つけて試し読みが叶うと、嬉しくなってその場に釘付けになる。もちろんすべて読むわけはできないので、「買うべきか去るべきか」を決定する。幸い都会の書店は立ち読みしている私にぶぶ漬けを食べさせようとすることはほとんどないはずなので、重大な決定をする時間は十分にある。それでもめくるめくような書籍の大宇宙へ渉猟しに来た他の購買者には煙たがられてしまうので、勇気を出して退散しなければならない。
結局、二冊購入して「オーギュスト」のような名前の喫茶店へ入店した。コーヒーとサンドイッチを頼んで本格的に時間を潰すことにする。早速買った本のうち、一冊を取り出して意気揚々と読み始める。このような時間の使い方は普段あまりないのだが、こういう時こそ思索が捗るというか、日々泡のように浮かんでいくとりとめもない物事をギュッと束ねて文章の構想を練る。
一方で、完全に考え事に集中しているというわけでもなく、それなりに気が散る。何せよ、モダンな店内の雰囲気が良いし、特に椅子のデザインが気に入った。鮮やかな紺碧だった。作業中にAirPodsで聴いている曲と曲のトランジションが神がかり的だと思う瞬間もあると、そちらに気を取られる。脳内は大変忙しい。逆に何もない空間に閉じ込められたとしたら、思索は捗ることはないだろうし、今までもこのカオスを受け入れて文章を綴ってきた。やはりこれでよい。コーヒーは存外普通であったが、サンドイッチには舌が唸った。五感を総動員している、という状況が良い思考を生み出すのかもしれない。
そんな時に限って、自分自身が一体何者なんだろう、私とはなんだろうか、と考える自分がいる。自分がいて、周りに他人がいる、ということがさぞかし当たり前になっている。その感覚がふと不思議になる。なぜ自分がいるのか。自分が存在している、という圧倒的衝撃が私に生起する。いや、飛来するといった方が良いのか。こうした雑多な刺激のなかでこそ、私はしばしば自己という問題にぶつかる。
鏡の中の自己
このようなことを皆さんも考えたことがあるのではないか。どうやら同じことを考えているのは私だけではない、ということを知った時は心底安心したが、私に青天の霹靂が生じたのは小学校高学年くらいだろうか、という気がする。 すなわち「自己への目覚め」が何の脈絡もなく「こんにちは」してきたことになる。その時の私はどうしようもなくて呆然とした、という記憶がおぼろげにある。自分のことなのに、自分の顔を自分で見るには、鏡を介するほかない。これは不思議なことだなぁと思ったこともある。
その後何度も同じことを考えることがあった。徐々に自分の体つきが変わっていくのに、自分は自分のままなのである感覚は妙であった。高校生になってもいかんともしがたいものであった。それよりも受験勉強が私を悩ませた。他人と競い合う構造のせいで自分の立ち位置を嫌でも自覚させられることは、自分と他人という隔たりが決定的なものであるという避けられない運命のようにも感じられた。
たかだか18の人間がどうして精神科のことなどわかろうか。別に精神医学の本を読み漁っていたわけではない。人文学に興味があったわけでもない。いや、あったほうか。小さいときから世界中の神話や伝説に興味があったくらいで、隙あらばゲームをしていたものだ。理系よりは文系だろうな、と思いながら理系へ進んでいた。どうやら私の親戚が精神科医をやっているらしいことを耳に挟むこともあった。面識はない。後に調べてみると、若い頃は確かにとある病院に勤め、今はどこかの病院の管理職になっている。私の祖父に贈呈されたその著書を譲り受けることになったのは本当に偶然であった。この発言ができるのは私の特権であるが、おそらく私の祖父は彼の本をもらっていても、ちゃんと読んでいない。かなり古い本にしては本がきれいすぎるし、中に同封された手紙もきれいに畳まれてページに挟んだままだ。祖父はパラパラとめくって、そっと本棚にしまったのだろうと思う。
その本は次のような冒頭である。私的な関係に触れるため、ここでは書名を伏せる。
中国観相学の古い言葉に「面貌属自己所有」、あるいは「面即是人」という言葉があるが、これらの言葉は「顔は自分自身である」、「顔はその人そのものである」ということを意味している。 すなわち、顔はその人の個的特徴を最も端的に現しているということを述べているのである。しかし、われわれは他者の顔を見るように自らの顔を直接見ることはできない。
私が青年の頃からずっと考えていたことと全く同じことが書いてあるではないか!と読んで大変驚いたものである。赤の他人ならまだしも、薄い血縁があるとなると、話はやや不穏なものになる。別の世界線から、もう一人の自分に似た誰かが現れたような感慨であった。精神医学の文脈で「鏡」、「自己」とくればJ. ラカン(1901-1981)「鏡像段階論」を想起する人もいるだろう。無論、著者はラカンについて引いている。ユニークなのが動物園の協力を得て、鏡に写ったチンパンジーの振る舞いを観察しているところである。この著書は、認知症の症例の中に、鏡を見せても写った自分は自分だと認識できない例がある、という臨床的事実をもとに自己とは何かについて論じている。独特な視点も既視感がある。
この著書はもう絶版であり、メルカリで古書が取引されているのを私は観測している。いくつかの大学図書館にも所蔵があるようだ。著者は博士論文を一般の言葉にして書いてみた、と記しており、利益を目的としたのではなく自身の業績の里程標とした、と解釈するのが無難だろう。一読者としては存外に面白い内容だった。私と著者が会うことはないと思うが、この書籍はいわば「鏡」として私ともう一人の精神科医を引き合わせた。偶然を偶然以上の何か足らしめる磁力があった。九鬼周造が偶然と必然の接点に運命を見たように、祖父にとって路傍の石であったそれは、私にとって自分の遍歴を確かめる、奇妙な試金石のように思えた。
偶然性
いままで生きてきて、偶然や必然というものに対して真剣に向き合うことはなかった。なぜか。私はこれらの言葉に、「努力は裏切らない」とか「偶然はない。努力の結果は必ずついてくる」のような軽薄な精神論の一部としてしか触れてこなかったので、辟易としていた。 しかしながら軽薄なのは私の方であった。こうした言葉を真正面から扱う哲学があって、真剣に学問として探求している人々がいることを、私は知らなかった。
偶然というものは、瞬間としてはただの偶然にすぎない。祖父の遺品にその本が残っていたことも、私がそれを入手したことも、私が精神科医になったことも、一つひとつは大した意味はない。人生の片隅に生じた小さな偶然でしかない。 しかしながら、とある出来事が別の出来事と接触したとき、偶然というものはにわかに輪郭を帯びる。私の抱えていた「自分の顔は自分には直接見えない」という問いを映し出してくれたのだ。ただの古本はもはやただの古本ではなくなった。古本は段ボールにしまわれていた時間の大半において、ただの古本であった。しかし、私が奇しくも精神科医になり、自己という問いを抱えたままそのページを開いたとき、それは単なる物から、私自身の遍歴を映す媒介へと変わってしまった。
木村敏の著した『偶然性の精神病理』に哲学者の鷲田清一が以下のように解説を加えている。
幼心にじぶんというものを考えるときに、どうしても外せない問いというのがいくつかあった。じぶんはだれの子かということ、じぶんが男であるというのはどういうことかということ、顔つき、手のかたち、脚のかたち、なぜじぶんにこんないびつな体躯があてがわれたのかということ、なぜこの時代に、この場処に、こういう人間関係のなかに生まれ落ちたのかということ……。 それらはこの<わたし>の存在にとってはまったく偶然のことがらである。<わたし>は別の<わたし>でもありえた。原理的には。しかし齢を重ねるにつれて、その偶然がじぶんにとってほとんど決定的な意味をもってきたことに気付かされていくようになった。わたしはいくらあがいてもこの<わたし>でしかありえないという事実に打ちのめされることが、しだいに確定的になっていった。それにつれてしかも、もうそうではありえない自分への想いというものもまた、つのっていった。
木村敏『偶然性の精神病理』所収、鷲田清一「[解説]〈偶然性〉の思考」より
解説というよりも私的な告白のような内容である。もちろん丁寧な解説がこの文章に続くのだが、同じようなことを考えている人というのは本当にいるのだなぁという感慨がこみ上げてくる。自分自身がなぜこのような姿で生まれ、育つことになったのだろうかということを考えている自分はもしかしてすごく珍しい人種なのではないか、と自分を買いかぶる瞬間もあったが、決してそうではないことを知って、かえって安心したものだ。
以来、私は偶然について考えるようになった。偶然について考えることは、単なる哲学的探求にとどまらず、私の精神医学の知識を深化させるために必要な修練であるような気がしている。別稿で述べた安永浩の「パターン」もまた、必然と偶然の対応という観点から読み直せるのではないか。安永は、体験を成り立たせる形式として「パターン」という概念を用いた。体験とは、単に内側で起こるものではなく、世界の側に意味を見いだしてしまう運動でもある。そう考えるなら、必然と偶然の接点である運命は、主観から世界へと伸びていくベクトルといえよう。偶然が必然の相貌を帯びるとき、個人にとってそれはいかなる経験になるのか。あるいは、病的体験において、偶然と必然の接触はいかなるものとして経験されるのか。このような問いが浮かぶ。この問いについては稿を改めたいと思う。
夜の街へ
さて、どうしたものか。まず何を考えて、どのように疑問を整理していくべきか。そのようなことを悩みはじめたとき、携帯電話に通知が届いた。それは私がこれ以上喫茶店で時間を潰す必要がなくなったことを告げる合図であった。
周囲を見渡すと私が席に着いたときとは客の顔ぶれが全く異なっていた。注文したアイスコーヒーの氷は溶けかかっていて、グラスは水滴をまとっている。ぐいっと飲み干して席を立ち、会計を済ませて店を出た。外はすっかり日が沈んでいたが、都会らしくあらゆる電飾が煌々と輝いていた。どんなに夜が更けても人混みは減る気配がない。
そんな人混みの中に、待ち合わせていた家族の姿があった。私は目配せをして、人の流れの中へ戻っていった。良い一日になった。