一周年
ご挨拶
サイトを開設して一年が過ぎた。あっという間に過ぎたという実感はないのに、日々の課題に一つひとつ取り組んでいたら、桜の花が散り、若葉が風にそよぐ季節になっていた。 時間感覚というのは不思議なもので、当直の夜は無限の長さなのに、家族と過ごす夜は瞬きのように過ぎていく。無限と瞬間を繰り返す循環の中に私(たち)はいる。 この一年は私にとって、重要な変曲点であった。一つの幹から枝葉が広がっていく感覚。萎れた葉もあれば、太く伸びていきそうな枝もある。このサイトは、もっとインターネット空間の枝葉末節になるのだと思うと心からワクワクしている。これからも育てていこうと思うし、楽しみにしてくれると嬉しい。若干ながら国内外からアクセスがあるのも嬉しくて、どうしてサウジアラビアやポーランドから私を知るのだろうかと不思議な気持ちがする。今は優れた翻訳がブラウザにあるから、やはり好奇心は国境を容易く貫くのだと感ずる。
私は学生のときにiWebというアプリでブログを立ち上げて、記事を書く癖が身についた。卒後、しばらくして2019年くらいにWordPressでブログを書くようになった。今はどちらもディラックの海に沈んだ。当時はiWebもWordPressも直感的にサイトを構成できるのが心地よくて、自分の考えを発信することの奥深さと、自由な意見が許容されることを喜んでいたが、数年前までは挫折と逆境、焦燥の渦中にあった。いかにして自身の健康問題とキャリアを軌道修正していくか、極めて切実な思いで日々望んでいた。一つの区切りがついたところで、私は密かに自分の箱庭のような空間をまた構築したいと思っていた。この企ては幸い上手くいったと思う。生成AIの台頭とGitHubというプラットフォームが私の箱庭と極めて親和性が高く、個人が静的サイトを作成するには十分であった。WordPressのような美しいブログテンプレートを選ぶことはせず、最小の構成から自己流に積み上げていくスタイルを選んだことも結果的に成功につながったと思う。
ブログの基本構成は当初と大きく変わらないが、複数の部分で改善を加え、可読性や操作性を向上させている。内容はどうしても哲学的方法論に依拠するからか、とっつきにくいかもしれない。それでも文章は読者の目線に、論考は実臨床へ至ることを心がけている。用語集も設けた。これは読者の理解を手伝うための足場のつもりで作成した。まだまだ語彙はわずかだが、少しずつ充実させることを意図している。また、普段の記事とは別に、日常の断片を切り取った写真集というページも作成した。どのようなきっかけであろうと、このサイトにたどり着いてくださった方、記事に目を通してくださった方にお礼申し上げたい。
二年目の抱負
これまでシリーズものをいくつか投稿してきた。臨床の合間に作成したので、相当時間がかかったものもあるが、実はまだまだ書き足りていない、というのが本音である。それでは既存の記事を書き足そうか、というとそうでもない。これからも新しい記事を書いていくことを基本姿勢としたい。精神医学の山脈は険しく、広い。まだ書けていないテーマがいくつもある。少なくとも近いうちに、パーソナリティ症についてさらに理解を深める必要がありそうだ。しかし、最も大きな疑問は次のことである。
問題提起
安永浩の『精神の幾何学』や『ファントム空間論』を読み進めるうちに、内海聡の指摘に電撃を撃たれた感覚に陥っている。私は被雷してから『精神の幾何学』における以下の指摘を反芻している。
了解は必ず了解不能なもの、つまりは了解を超過するものをはらんでいるはずであること、そしてその了解不能なものは了解の中核にあって、了解にとって不可欠なものである。
<中略>すっきりと整理された形で示していたわけではなく、『シニフィアンの還元不可能性』であるとか、『他者の先行性』といった挑発的なフレーズをぶつけていたと思う。
<中略>すなわち『私』であることは、必ずしも自明なことではないという批判である。
なるほど、そうである。以前のパターン〈転〉の終盤で述べたように、私というものは必ずしも自明ではないということが、ものすごく引っかかり続けている。そして純度100%の「了解」というのは生じ得ないだろうということである。
パターン理論は基本的に、一人称単数である「私」を体験の出発点にしている。おそらくこれはデカルトやフッサールから連なる論理である。そこから導かれる議論は明快であるのだが、一人称というものは実に曖昧で、特にこれが一人称複数となると、パターンの理論はひどく難しくなる。ここでいうパターン理論とは、私がこれまで試みてきた、精神病理を体験の一形式として捉えるための仮説である。 体験の出発点が私であることは、基本的に疑いようがないのだが、一人称複数で同様の議論ができるのだろうか、この場合、体験の出発点はどこになるのだろうか、ということになる。
テレパシーや超能力、という話でもなく、群体を形成する生物の意思決定という話をするつもりは毛頭ないが、体験の始原は一人称複数においてどのように経験されるのか、ということを今後の課題にしなければならないと思う。
私たち、という感覚についての先行研究は枚挙にいとまがなく、フッサールらによるいわゆる間主観性の議論や共同体意識、その他様々な議論と接続するだろう。
とはいってもあまりにも広大な領域を射程にするつもりは決してなく、あくまで私の関心領域の軸をぶらすことなく議論に集中させる努力をしていくほかない。
疑問は尽きない
私のサイトについての話をしていたのに「いつしか私たちとは何か」という話になってしまった。私が日々、家族とともにどのようにして生きるか、ということを考えているときに、「私とは何か」、「私たちとは何か」という疑問へ八艘飛びしているからだろう。「私たち」とは単なる「私+私」ではなく、個人を超えて先行する一人称である。すなわち「他者の先行性」である。これまでの論考のほとんどは、私の生存戦略の過程で生起した疑問に由来している。単なる言葉遊びやペダンチズムではなく、生活の中で切実に生じた問いとして、これからも考えていきたい。