見えない補助線を引く
問題提起
外来の診察室で、次のような相談を異なる人から何度も受ける。
周りと違って、働いていない自分が後ろめたいんです
自分は働かなくてはいけないのでしょうか
精神障害を理由に、就労の継続が困難となる人は少なくない。私が休業を必要と判断して書類を作成することもあれば、別の医師から引き継いだ患者で、すでに休職中ということもある。
多くの方は、一時的な休職をどうにか許容する。しかし、それがやや長期化してくると、しだいにこうした不安を覗かせるようになる。無理もない話である。
薬物療法と精神療法を併用する、ごく普通の臨床の中で、私たちは、至極当たり前だと思っている価値観が、その人自身を苦しめている場面に出くわすことがある。
私たちは仕事をしなければならないのだろうか。
この質問に対して、皆さんはどう考えるだろうか。答えはいくつかありそうだ。
第一の答えは、仕事をしなければならない、というものである。労働をして、生活に必要な金銭を得なければならない。
第二の答えも、やはり仕事をしなければならない、というものだ。なぜなら、労働は憲法上も権利であると同時に義務として語られているからである。
さらに別の答えとして、仕事を通じて他者とのつながりを築き、自己の成長につなげることができるからだ、というものもあるだろう。 どれもよく耳にする、尤もらしい理由である。
しかし、こうやって書き連ねると、やや胡散臭さが漂う。自分で書いていて、具合が悪い。
具合が悪くなるのは、これらの理由が完全に間違っているからではない。むしろ、どれもそれなりに正しいからである。生活のために収入は必要であり、労働には社会参加や自己形成の側面もある。働くことによって支えられる生活があり、働くことによって得られる関係や手応えもある。 問題は、それらの正しさが束になったとき、働いていない人を逃げ場なく追い詰めることがある、という点である。 ここまで仕事をしなければいけない理由をいくつか挙げてみた。しかし、これらは「仕事をしていない」人にとって、非常に重苦しい枷になりうる。
一方で、現代では「仕事をしなくてよい理由」を挙げることが非常に難しい。古代の労働観とはまったく違う。仕事をすることは、2026年において「正しい」価値観になっている。 「仕事をするのは当たり前ではないか」と感じる読者もいるかもしれない。もちろん、その感覚を否定したいわけではない。
私の関心は、当たり前を当たり前たらしめているものは何か、という点にある。 当たり前があるということは、当たり前ではないものがあるということでもある。これは詭弁ではない。右があれば左もある、という話である。
本稿で考えたいのは、「人は働くべきか」という一般論ではない。 むしろ、働けないことが、なぜこれほど容易に恥や自責へと変わってしまうのか、ということである。生活費の問題だけではない。社会から外れてしまったような感覚、自分だけが役割を失ったような感覚、制度を利用することへの後ろめたさ。そうした苦痛は、いったいどこから来るのだろうか。
「働くことは何か」という問いを手がかりに、当たり前とされている価値観が、どのように人を支え、同時に人を苦しめるのかを考えてみたい。
狂気について
ここで、急旋回してフランスの哲学者であるミシェル・フーコー(1926-1984)の議論に触れたい。 フーコーは『精神疾患と心理学』の中で、次のように述べている。
ここで二つの問いが問われる。どのようなふうにして、われわれの文化は、病に逸脱の意味を与え、排除されるべきものとしての地位を、病人に与えるようになったのであろうか。それにもかかわらず、社会が自らの姿をそこにみとめようとしない病のかたちの中に、じつは社会がかえって自らを表現しているというのは、どういういきさつによるのであろうか。
引用元は1954年の『精神疾患と人格』(Maladie mentale et personnalité)ではなく1962年に改訂された『精神疾患と心理学』(Maladie mentale et psychologie)である。この著書は二部構成になっている。第一部は精神疾患を心理学的に理解しようとする諸学説が検討され、心理学は精神疾患の位置づけに寄与したがその出現条件を解明できていないとした。第二部では、狂気が社会の中でどのように扱われてきたかを述べる。例えばデュルケーム(1858-1917)は病的事象を、
ある社会の中で、平均から逸脱しており、すでに通過してしまった進化の前段階を示す現象。または辛うじて始まったばかりの発達の、近いうちに到達すべき段階を予告するような現象。
と考え、さらに
人類においてもっともしばしば見られる特徴を、同一の総体として集め、一種の抽象的な普遍性を考える。もしこれを平均的類型と呼ぶことにするならば、<中略>この健康基準からの逸脱はすべて病的現象と言ってもよいであろう。 ある社会的事象が、ある一定の社会において正常というのは、ただその社会の発達の、やはり一定の段階についてのみ言いうることである(社会学的方法の原則)。 」
とした。 また、ベネディクト(1887-1948)によれば、各文化は、人間の人類学的布置を形成する可能性のいくつかを選び取るという。すなわち、ある文化では個人的自我の高揚を重んじるが、別の文化はこれを徹底的に排除する。またとある部族は攻撃的な行為が好まれるが、これを抑圧する部族もいる。したがって各々の文化は病についてあるイメージを抱くが、そのイメージの輪郭は、その文化が無視するか、または抑圧する人類学的可能性の総体によって描かれるのだと述べた。
彼らの社会の特徴たる行動に対して、もっとも近い自然反射を持つ者が優遇される。同じ道理から、その文明には存在しないような行動範囲に属する自然反射を持つ者は、途方にくれてしまうのである。
デュルケームらは病の本性は逸脱と偏差であるとした。そしてフーコーは、私たちの社会は病人を追放し、あるいは閉じ込め、彼の姿において自己を認めようと欲しないと批判する。病の診断を下すその瞬間に、われわれの社会は病人を排除するのだと。
改めて、冒頭の問いに戻ろう。 フーコーが問うているのは、病が単に個人の内部にある異常なのか、ということではないだろう。むしろ、ある文化が、何を逸脱とみなし、何を排除すべきものとして位置づけるのか。そして、その排除されたものの中に、実はその文化自身の姿が反転して現れているのではないか、という問いである。
この問いは私にとって非常に痛烈なものである。病院の中で大声を出している人がいても、全く動じないが、道端や駅の構内で大声を出している人に対して、どうしても身構えてしまう自分がいる。おそらく、私自身が「診断」というラベルの有無によって、その人が管理下にあるかどうかを無自覚に分別しているからであろう。これは差別意識と近接している危うさがある。 このように書くと、私自身の差別意識を告白しているだけではないか、と受け取られるかもしれない。 しかし、この感覚は、重大事件が起きたときに「容疑者は精神科受診歴があり……」と報道されたときのある種の「わかった感」と近い。ああやっぱりね、という顔をする人がいる。そして必ず言及されるのは刑法39条に関する議論である。ここでその話はしない。ただ、病や狂気が、社会の不安を引き受ける場所として扱われていることは確認しておきたい。
社会は、病や狂気を、自分たちの秩序の外にあるものとして扱う。正常な社会の外部に置き、例外として名づけ、管理しようとする。 しかし、そこで「外部」として扱われたものは、本当に社会の外にあるのだろうか。 むしろ、その病の形には、その社会が何を正常とし、何を恐れ、何を認めようとしないのかが刻まれているのではないか。そこに「労働」が含まれているのではないだろうか。
働けないことについて
この視点から見ると、「働いていない自分が後ろめたい」という苦痛も、単なる個人の自責としてだけでは捉えきれない。 働けないことは、もちろん現実的な困難である。収入の不安があり、生活の不安があり、家族や職場との関係の不安がある。しかし、それだけではないはずだ。
働けないことは、しばしば「自分は役に立っていない」「社会に参加していない」「人に迷惑をかけている」「支援を受ける側になってしまった」という感覚を伴う。 つまり、労働能力が、単なる生活手段ではなく、自立、責任、社会参加、正常性、さらには自己価値と結びついている。 そのとき、働けないことは、単なる生活上の困難ではなく、自分自身を裁く尺度になってしまう。ここに、社会の価値づけが個人の内側で自己攻撃として響く場面がある。私たち全員が利用し得るであろう社会保障や福祉制度を利用する権利があるにもかかわらず、支援を受けることを恥と捉えてしまうのである。
ときに、十分な時間と評価を経ても、一般的な就労にはかなり慎重に考えるべき状態の人でも「仕事したいんです!」というくらい、労働することの社会的価値は強力である。
「働くことは大事である」という価値を、ただ否定することはできない。しかし、その価値があまりに強く、あまりに一元的になるとき、働けない人は、自分の存在そのものを疑い始める。この苦痛は、個人の問題だけから生じているのではない。
働くことを正常性や自立の証明として扱ってきた社会の価値観が、働けない人の内側で、恥や自責として現れているのである。その意味で、「働いていない自分が後ろめたい」という言葉は、単なる人生相談ではない。 それは、現代社会において、労働がどれほど強く人間の存在資格と結びつけられているかを示す言葉でもある。
自責をどのように扱うか
それでは、「働けないこと」に対する自責感や後ろめたさを臨床家や支援者はどのように扱えばよいのだろうか。ここに決まりきった正解の説明はおそらく存在しない。「労働は社会的に作られた価値観に過ぎなくて、これは古来から当然のものではなく……」という説明はもはや社会学の講義になってしまう。私は時間の余裕があり、その場の文脈が許すならば、このような説明を枕詞にすることがあるが、これは決して正解ではない。説明しすぎることは自己満足に陥る。
もちろん、現実にその環境から離れることが必要な場合もある。しかし、治療者が早い段階で「そんなところは辞めた方がいい」と断定してしまうことには慎重であるべきだ。
これまで働いていた人が働けなくなったという過程をどのように理解するかがまず重要であろう。自立や役割の喪失と読み替えることも求められよう。社会からの疎外感に理解を示すことも必要だろう。自己肯定感の足場が揺らぐ体験でもあるだろう。こうした感覚は基本的に「了解」できるものだ。大切にしてきたものを失う感覚を理解し、共感を示すことは重要だ。
したがって、治療者が扱うべきなのは、単に「働くべきか、働かなくてよいか」という判断ではない。働けなくなったことが、その人の世界のどこを傷つけ、どのように自己攻撃へ変わっているのかを、ともに見ていくことである。
「ポジティブな表現」の注釈
共感することは難しいようでいて簡単である。難しいのは治療的に共感を示すことである。相談しに来た人の話を聞いて、得心することはさほど難しくないが、それをどのようにして治療に転ずるかが臨床家の実力と言えよう。
ちなみにフーコーは治療の方法論には言及していない。改めて確認すると、彼は医師でも心理療法家でもない。これは批判ではなく、彼が精神医学の臨床と研究に従事していたことがあるだけあって、単なる疾患の紹介に留まっておらず闊達な議論をしているという指摘である。彼は同書で、「狂気は文化的にポジティブな表現」だと主張しているが、精神療法への応用を論じる前に、彼の「ポジティブな表現」についてまず考察してみたい。
彼は『精神疾患と心理学』の第二部の中で、精神疾患とは、ヨーロッパの17世紀中葉から狂人を一般社会から隔離収容したという事実による結果なのだ、と解釈している。 よって狂気を研究するには、今まで行われてきたアプローチでは不十分である。神谷美恵子訳では、疎外されていない「総体的構造」としての狂気をきわめなくてはならない、とされている。フーコーにとって同時代の心理学は「疎外された狂気」の研究を土台として打ち立てられたものであり、真の基盤を持っているとはいえない。なかなか豪胆な主張である。続けてこのように述べる。結局、ヨーロッパ人は、もう一度疎外されない、あるがままの狂気に直面し、これに対する自己の関係というものを正さなくてはならない。それはとりもなおさず、自己対自己の問題である、と。 そして、
自己対自己の関係とは、人間が自分自身こそ真理の真理であるという根本的な仮定の下に真理を疎外して、自己対真理の関係の代わりに、すっかりかえてしまったものである。
非常に難解な主張である。このような文章が大学入試の二次試験で出題されたら卒倒しかねない。 やはり、「当たり前を当たり前たらしめているものは何か」という問いに戻るのだろう。 当たり前があるということは、当たり前ではないものがあるということでもある。そして、当たり前でないものを排除することは、逆説的に、当たり前とは何かを自らに突きつけることでもある。正常ではないものを外部に置こうとする身振りは、かえって正常性そのものがどのように作られているのかを露わにしてしまう。この文脈で、フーコーは狂気を「ポジティブな表現」と呼んでいるように思われる。
しかし、この豪胆さをそのまま臨床に持ち込むことはできない。患者の前で「あなたの苦痛は文化のポジティブな表現です」と言うわけにはいかないからである。フーコーは、狂気を単なる欠損や逸脱としてではなく、ある文化のあり方を映し出すものとして考えようとしている。ただし、この点をこれ以上踏み込んで論じるには慎重でなければならない。神谷美恵子の訳者あとがきからも、断定を避け、困惑を滲ませたような書き方をしている。
こうなると、これはただ狂人の社会的疎外に反対するヒューマニスティックな情熱というような、単純で甘いものではないことがわかる。もっと内面的な、もっと本質的で、フーコーは狂気というものを、人間性の一部として、復権させようとしている、と思える。しかも、狂人といわれる人々の中に、かえって人間性の価値あるものがひそんでいる可能性がある、とさえ言おうとしているように見える。
では、フーコーの問いは臨床家にとって無用なのだろうかというと決してそうではない。むしろ、それは治療者の立ち位置を変える。患者の自責を、単なる個人の弱さや認知の歪みとしてではなく、社会の価値がその人の内部でどのように作動しているかとして聴くための補助線になる。
精神療法へ
では、治療者は何をすればよいのか。
まず避けるべきなのは、自責をただ否定することである。「そんなふうに思わなくていい」「制度を使うのは当然の権利だ」と言うことは、間違いではない。しかし、それだけでは、患者が抱えている恥の構造には届かないことがある。
働けないことを恥じる人は、単に制度を知らないのではない。むしろ、働くことを大切にしてきたからこそ、働けない自分を許せなくなっている。
そのとき治療者にできるのは、労働の価値を否定することではない。働くことを大切にしてきたその人の歴史を認めつつ、その価値がいま自己攻撃の形をとっていることを、ともに見ていくことである。
たとえば、使い古された文句だが次のように言うことはできるかもしれない。
「仕事を大切にしてきたからこそ、働けない今の自分をとても厳しく見てしまうのかもしれませんね」
この言葉は、私が発明したものではない。昔から使われてきた名台詞のようなものだが、その背後には、労働、自立、正常性、自己価値がどのように結びついているかという理解がある。精神病理学的な理解は、患者にそのまま説明される必要は必ずしもない。それは、治療者の聴き方と応答を変えるためにある。
さて、ここからどのように展開していくか。これまでの議論の通り、働くべきか否か、という二項対立的な価値判断に陥るべきではない。働けないことを正常からの逸脱とみなしてしまうことは、治療的ではない。ただ、恒久的に休職していいかといえば現実的にはそうはいかないことも多い。だからこそ、休職している間、いかに回復とともに次の戦略を練るかを一緒に考えることになる。ただし、休職したばかりの急性期には「まだ何も決められない」「何も考えられない」という返答が多い。焦らず、回復を見極めて、要所要所で意思決定がどこまでできるか判断することが求められる。
そして、復職をするにしても、完全に同じ元鞘に戻ることを目指すべきではない。これは他の臨床家の受け売りだが「新装開店」を目指すのが良いとされる。エンジニア風に言えば、バージョンアップとも言えよう。日常の言葉で勇気づけることが私は治療の推進力になるのではないかと思う。
休職となる背景は複合的であるが、基本的にはなにか引き金となるような事情があって、精神的不調となるケースが多い。無論、この中には心因性のように見える内因性もあるので臨床家は鑑別に用心しなければならない。要するに、回復してから同じ轍を踏むなという助言を誠実に行うのである。どのような点が不調に関係していたのか、どうすれば次はもっとうまくいくだろうか。どのような考え方のクセがあるのか、これらの点を自分で気づくように透明な補助線を引く。ヘンゼルとグレーテルも舌を巻くように、ところどころに小さな目印を置いていくのである。少なくともヘンゼルとグレーテルは外来に来たことはないが、私なりに、治療という幾何学に補助線を引いておくことを心がけている。
どう働くべきか
最初の問いに戻ろう。私たちは仕事をしなければならないのだろうか。この問いに答えることは最後まで難しい。インターネットに住むランプの魔神が尋ねてきたら仕方なく「部分的にそうだ」ということになる。
生活のためには収入がどうしても要る。働くことが生活の支えとなり、社会との接点となる。働くことの価値を否定できない世界に私たちはいる。しかし、この記事で最も主張したいのは、働けないことを、人間としての価値や能力欠如、正常性からの逸脱として扱ってはならない、ということである。そもそも働けないことを価値判断に載せるべきではない。
働けないことは、まずは現実的な困難として理解すべきである。複数の問題がある。しかし、働けないことが、その人のどのような部分を傷つけているのかを理解しなければならない。
仕事ができなくなったことで、どのようにして当人の自己卑下に転じていくのか、どのような意味を持つのかを考えなければならない。
私の仕事は人生相談ではない。働く・働かないことの価値を論じない。働くことが当たり前であるという立場にも、逆の立場にも与しない。もしまた働こうと考える余力が出てきたら、そこに追い風を吹かすくらいである。二週間くらいの天気予報ならできるかもしれない。次の生活への推進力をそっと付け足す。親鳥のもとに帰ってくる雛鳥はいない。精神科は用が済めば忘れてもらうのがちょうどいい。