Brompton P Line Lunar Ice

速く移動したい

11月になって、自転車を買った。折りたたみ自転車というものを買った。私は10年くらい前に折りたたみ自転車というジャンルを知って、なかでもブロンプトンというメーカーが、その老舗メーカーであることを知り、時折そのことを思い出しては忘れることを繰り返していた。かなり高額な自転車であったし、すでに車を持っているので、大抵の移動は車で事足りていた。しかしながらここ近年はそういう手段をもってしても、かえって駐車料金を取られたり、そもそも駐めるところがない、という事象に出くわすことが増えてきた。

そのような場合はもっぱら鉄道を利用するわけであるが、駅は中間地点であり、目的地ではない。ということは駅から目的地へ歩く必要がある。どんなに最寄りだとしてもそれなりに歩かなければならないことがある。ただただ歩けば良い話ではあるが、歩くことが惜しいと思える気持ちが出てきた。できることなら速く移動したい。それも自由に。 周囲を見渡すと、歩行者、自動車、バス、そして自転車が街を行き交っている。

––自転車。

自転車は確かに速い。パーツの消耗を除けば、コストがかからない。動力は己自身。思えば自転車に乗らなくなってから随分久しい。学童の頃は自転車に乗っては、30分以上かけてゲームショップや友人の家に出かけていたものだった。最後に乗ったのはいつだろうか。覚えていないくらい遠い記憶になった。研修医の時が最後なのかもしれない。それくらい乗らない日々が続いた。

今の生活習慣が形作られていくなかで、電車に乗る必要が増した。人付き合い、買い物、講習、食事、映画鑑賞といった目的を果たすときに電車が入り用になる。今までてくてく歩いていたことは無駄ではないのだが、複数の経路を組み合わせて移動するとなると、手間を惜しみたくなる。それか、その手間に特別な地位を与えたくなる。

月の色

私にとって、その最適解は折りたたみ自転車を電車に持ち込んで輪行することではないかと思った。輪行というのは、鉄道や公共交通機関に自転車を分解するか折りたたむなどして移動することである。それを検証するために、小径車専門店に足を運んだ。びっしりと色とりどりの折りたたみ自転車が並んだ店内は壮観であった。若い店員が私を出迎えた。ブロンプトンを見に来たと言ったら、その青年は実に丁寧かつ明快な説明で、ブロンプトンの話をしてくれた。自転車のことを「この子」と呼ぶことから自転車への愛着を感じた。試乗も気軽にさせてもらった。

ラチェット音はそれなりにするし、凹凸はよく拾う。不整な路面では手への振動が多く、少しの段差でも乗り越えるのは難しい。それでも乗り味は良い。剛性の高い車に乗っているような芯の強さと軽快さが両立した感覚といおうか。当たり前だが、歩くより速い。こんなに速かったっけと思うくらい。ついついペダルを漕いでしまう。運転をするのはやはり楽しい。天気も良くて風が心地よい。店内に戻って自転車を折りたたむ動作を見せてもらうと不思議なくらい小さく収まる。ハンドルの種類、変速機の違い、世代の違いなどを教えてもらったが、ブロンプトンの世界はだいぶ奥深いようだ。相当なカスタムを施すものもいるくらい、カスタマイズ性が高いという。

中でもグレードによって塗装された色が異なることを教えてもらうのだが、最も目を引いたのはLunar Iceという、空を仰いで見る月面のようなグレーであった。この色に、黒く塗装されたチタンのフロントフォークはよく似合った。 ただ、流石に高額な商品であるので、初回はこの自転車の意匠を網膜に焼き付けて退散することにした。去るものを追わない店員に好感をもった。

それからしばらく情報収集することにし、本当に買うべきか、買わないべきか、千夜一夜考え続けた。買ったらさぞかし楽しいだろうなという、純粋にワクワクした気持ちが、メンテナンスや維持コスト、購入金額の高さを上回った。自分の移動がさらに拡張される。極論をいうと、どこにでも行けてしまう。飛行機やフェリーにも積める。もしかすると、いつか外国を自転車で移動できるかもしれない。 そういう可能性があると思うと、未知の拡張性に投資をしてもよさそうだと思った。

そんなわけで、もう一度店舗を訪ねた。何度か乗り比べをさせてもらい、意を決して購入するに至った。ライト、キャスターの装着などを依頼し、幾星霜を経て、ついに納車が可能になったと連絡を受けた。

初輪行

三度目の来店をして、お待ちかねの「子」とついに対面した。やはりこの色で良かった、という確信と安心を得た。納車前の書類説明やアフターサービスの案内を受け、退店し、早速運転をする。 実に軽快で、なんども意識するのは自分の身体感覚であった。ペダルを漕ぎ、変速を意識し、周囲を観察して、すばやく走る。この金属の塊を自分自身の身体で操っているのだという感覚が心地よくて、嬉しい。今の感覚に集中できることがとにかく嬉しい。不安や焦り、自分ではどうにもならないことをどれも置き去って、今ある路面をどういなすか、四肢を使ってどのように攻略するか、それだけを考えればいい。そんな気持ちにさせてくれる。自然と呼吸は律動的になる。ダイナミック・マインドフルネスとでもいおうか、自分の肉体との対話を久しぶりにした感覚を喜んだ。

自転車を袋に収納するのはやや面倒であるし、若干視線を感じる。ただ収納してしまえば造作ないし、展開すればあとは過ぎ去るのみだ。 ただ、10kgを切るとはいえ、駅構内を持ち運ぶのはなかなか重い。日本の規則では完全に袋に収納することが求められているため、やむを得ないが、硬直的な規則という気もする。 筋トレと言い聞かせ続けるのも難しいだろう。今後、工夫をしてみようと思う。

抱負

今のところ、これからどこに行こうか、何をしようか、という考えからブロンプトンに乗るのではなく、ここに行くことになっているから途中の行程はブロンプトンで行こう、という考えで乗っている。前者は時間や様々な事情で難しいが、後者であれば、移動過程に価値を見出すことができる。いつかは前者を目的とした移動をしてみたいが、しばらくはごくありふれた移動に自分だけの価値を与え、楽しみを見出して行きたいと思う。