私は久しぶりにニュージーランドに行ってきた。 現地で撮った写真はFragmentsに掲載しているので、ご覧になっていただけると嬉しい。

実に有意義な旅行であった。

ここでは旅行を振り返る記事にしようと思ったが、気が変わった。何をして過ごしたかを綴るだけではつまらない。

旅行に「空間の経験」という書籍を持参した。風邪を引いていたときや機内で少しずつ読んでいたのだが、今まで読んだことのないジャンルの本であった。だからこそ私が惹かれて購入したし、旅の仲間にも加えたわけである。 著者はイーフー・トゥアン(段義孚、Yi-Fu Tuan)という。中国系アメリカ人で、中華民国期の天津で出生したのち渡米し、以後米国に在住。地理学者として知られている。

彼は「人文主義地理学(Humanistic Geography)」を代表する人物と言われる。ただ、それ以上のことはよくわからないし、私は地理学についての知識をほとんど持ち合わせていない。 CDでいうジャケ買いのような動機で購入したのだが、「空間の経験(Space and Place)」という題名がまず気に入った。安永浩の「ファントム空間」のような匂いを感じ取ったのである。出版社の内容紹介を見ると、

人間にとって空間とは何か?それはどんな経験なのだろうか?また我々は場所にどのような特別の意味を与え、どのようにして空間と場所を組織だてていくのだろうか?幼児の身体から建築・都市にいたる空間の諸相を経験というキータームによって一貫して探究した本書は、空間と場所を考えるための必読図書である。

 筑摩書房より

と書かれている。必読書とは随分大きく出たと思うが、空間について、経験について関心のある私がこれを読まないわけがない。 私は空間・経験・自己・他者といった言葉、そしてそれらと密接につながって生起する「懐かしさ」という感覚が生涯の私的研究テーマになりそうだと密かに思っている。 そんな私にとって、ニュージーランドというのはどういうわけか、特別な位置を占める土地で、何度か訪れたことがある。 なぜ何度も行くのかと言われると、その答えは人によって変わるのだが、「景色がきれいだから」というのが無難な逃げ方になる。何をしていたのと聞かれれば「何もしていない」と言いたいが「クジラとアザラシを見た」となる。やはり「クジラとアザラシを見た」というのは事実の列挙にすぎない。

確かにターコイズブルーの海原、蒼穹という言葉が地球上で最も似合う場所。旧宗主国の影響を残すなだらかな丘陵と短く刈り込まれた牧草地帯はどれも私にとって異質である。なのに、どこか心惹かれる。どうにも懐かしい。ずっと見ていられる。ずっと見ていたい。実際、海辺を散歩して終始海岸線を眺めていることが多かった。

一体なぜなのだろう、と考えていた。旅の間考え続けていたが、結局よくわからなかった。トゥアンは「トポフィリア(Topophilia)」、「場所への愛」という用語を提唱し、それを研究した人物であるが、果たして私の抱くこの感覚がトポフィリアなのかというと、厳密な検証が必要だろう。なぜならトポフィリアの射程は広く、一義に定まらないからだ。

それに、私は(家族と最低限の仕事の回線は除いて)誰からも関心を持たれず、元職場の人からも何もかも一切合切振り切って、少しの間だけでも一人でいたかった。9000km離れた土地なら誰も追いかけてこない。9000kmの隔絶が自分を守ってくれた。 若草色の丘陵と浅葱色の海、柔らかい西日が懐かしい。周囲の風景と最低限の会話が自分の摩耗した感覚を補い、修復してくれる。日常との切断が癒しになった。ニュージーランドに何度か行っていると述べたが毎回滞在先は違う。空港を除けば完全に新天地である。それなのに安心してしまう。 私は何もしないことをするために旅をしたと断言できる。ここまでしないと君は休まらないのか、と問われると返答に窮するどころか無視するだろうが、どうにも俗世は騒がしくて考えなければならないことも多いし、「世の中に心付けずて」過ごすことが難しいと感じる。

私は折りに触れて「懐かしい」と述べてきた。確かに懐かしいのである。それはかつての旅行の経験を重ね合わせているのもあるだろう。新しいのに懐かしい。かつてのヒットソングがリマスターされてリミックスされた感じと似ているような、でも似ていない。 新旧重ね合わせて一つのものにする感じとも違う。

では何なのか、未だにうまく言い尽くせない。「空間の経験」を読んでも答えは見いだせなかった。私の想像力と語彙力と表現力の限界を超えているのか、ただ私の思考が錯綜していて、そもそもないものを探そうとしているのか、はたまた目が覚めてなんとか記憶に留めようとしたのに記憶にしまっておけない夢なのか。

訪れたことのない場所に、なぜ親近感や懐かしさを覚えるのだろう。単なるノスタルジーに還元させるのは違うと思いつつ、そもそもノスタルジーは何なのだろうかとも思う。 リミックスされた旧曲をもう一度考えてみる。リミックスされた音源を聞くと、かつての曲の輪郭がブワッと浮き上がってくる。

そうそう、こういう感じ。でもイントロも音作りも違う、けれどやっぱり……

「やっぱり」の続きは人によって違うだろう。前の方が良かったという人もいれば、今のも好きという人もいる。 今の曲を聞くことでおのずから旧曲を想起する、その体験を心地よいと思う。この一連の感覚に何らかの命名をしたいと思うが、この体験は、私の異国を訪れた感覚とどう違うのだろうか。

一度も訪れたことのない土地から、訪れたことのある土地を想起し、その体験を心地よく思う。その意味では確かに同じだ。同じなのだが、曲には必ず終わりがある。一つの閉じた時間である。再生すれば同じ構成が何度も再演される。閉じた無限性というべきか。しかし、人間が土地を訪れて何かを感じるという所作には、常に開かれたものがある。どこに行くのか、何を着て、何を食べるのか、誰と話して、何を感じるのか、そして私が渡航中に風邪を引いたように、不意に受け入れがたいことが生じる。偶然性の侵入。

無限の体験の連続性に、過去の記憶が顔を覗かせる。私が覗こうとしたわけではないのに、記憶が現れる。忌々しい陰気な鈍色の雲が何重にも重なっていて、これから雨が降り出しそうな予感がしたと思いきや、晴天が現れて、一筋の清々しさを感じる瞬間に、かつての旅の記憶が呼び起こされる。そこに私は心地よさを覚える。

そうそう、こういう感じ