月に一度の楽しみがある。私はとある理由で定期的に地方へ赴くのだが、ほぼ固定した慣習として、ラーメン山岡家での食事がある。今回はラーメンの話をしたい。

おいしいラーメン 見つけた

私が山岡家を知ったのは、かつて北海道で仕事をしていたときである。冬夜の道路というのは、車と街道沿いの飲食店の明かりが煌々とあたりを照らしていて、不思議な雰囲気を醸し出している。 様々な飲食店が並び、疲れた人々が吸い込まれていく様は虫の走光性(Phototaxis)のようで、皆空腹を満たそうとどこまでも続く直線道路から分岐して小休止を取るのである。 かくいう私も、もくもくと立ちのぼる煙と、真っ赤な背景に白い文字で「山岡家」と書かれた看板を見つけ、注意深く考えるふりをしながら駐車場へ舵を切る。 今思えば、白煙とド派手な看板は啓示的であった。何か超越的な力が私に作用し、ハンドルを左に切らせ、驚くほど精密なテクニックで、雪のせいでどこに駐めればよいかわからない敷地に軽やかに駐車する。

すでに店外から独特の匂いが立ち込める。嗅いだこともないくせに「豚骨の匂いだな」と直観し、理由知ったような顔をして店内へ入る。さらに濃厚な匂いが鼻孔を支配する。 自宅でこの匂いがしたらたまったものではないが、もはやそんなことはどうでもよい。 「いらっしゃいませぇ~ お好きなカウンター席にどうぞぉ」と告げられ、カウンターを見やると、両端にはすでに疲れ切った中年男性と寡黙そうな中年男性がそれぞれ着座しており、男子トイレの如く一つおきに席が空いている。 一つおきに中年男性が着座する配置になっている。なぜか男性ばかりである。 好きな席の選択肢はほぼない。入口の真後ろは誰も座っていない。強烈な冷気が客と同時に入店するからである。どうしようかと思案するが、まずは食券を買うことが作法である。

当時の私は山岡家を知らなかった。したがって、何を食べればいいかもわからないし、決めていなかった。 この宇宙にはあらゆる天体よりもラーメン屋の方が多いと言われているが、ラーメン屋には大抵「醤油、味噌、塩」の3種類があると思う。豚骨や背脂というものもあるが、原則的には、である。 新しく入るラーメン屋で何味を頼むのが最適なのかは、常に私の心をかき乱し、苦悩させるテーマである。この時は「醤油」を頼んだと記憶している。トッピングはなしにした。

「いらっしゃいませぇ、醤油ラーメンんっ、麺の硬さ、味の濃さ、油の量いかがしましょうぅ」 ビブラートが印象的である。 いかがするも何もないぞ、と思ったがどうやらカスタマイズできるらしい。このようなスタイルが様々な店舗にあることをまもなく知った。

私が山岡家の店員さんと交わす言葉は以後「全部普通で」になった。「普通」という言葉はかなり曖昧で、あまり好きでない言葉なのだが、山岡家の「普通」は明瞭で適当である。 ゴルディロックス的なちょうど良さである。したがって私は初回以来、一度も「普通」以外であったことがない。 他を試す気持ちが失せるくらい丁度よいのだ。

注文が終わり、席から周囲を眺めると、黒いTシャツの店員らがネギを切ったり、湯切りをしたり、楽しく談笑をしている。店内からは常に最近の歌謡曲が流れてくる。 奥のボックス席からは家族や友人らがラーメンを囲んでいる姿も見える。和やかで平和な時間である。

スマホを取り出して不毛なブラウジングをしているうちに、ラーメンが運ばれてくる。 スープの表面には限りなく透明な脂が浮き、美しい光沢を放っている。脂の下にはやや灰白色のスープが見える。醤油にしては随分と白濁したスープではないか。 これはどういうことだろうかと訝しみながら割り箸を不器用に割って、まずはスープを一口。

強烈な旨味が口腔内を浸す。あらゆる体験がこの一点に集中される。

おいしいラーメン 見つけた 山岡家で 見つけた

歌詞のままである。見つけた、という表現が正鵠を射ている。 当時、比較的禁欲的な生活をしていたこともあって、このサイケデリクスは私の身体感覚を研ぎ澄まし、識無辺処の境地へ私を連れ去る。 レンゲが口と丼を往復し、スープの水位があっという間に下がっていく。 チャーシューを頬張ると、妙にしっとりして、口の中で自然に崩れていく。溶けるといったほうがよいのか。 私の知るチャーシューは繊維質でどうしても歯の間に挟まることが多く、あまり好きではなかったが、これはとても良いチャーシューであることを確信した。これなら大丈夫だ。 肝心な麺もすすってみる。思ったよりも太麺でもちもちしている。スープに負けないくらいの存在感がある。「これ以上太すぎたら困ります」というくらいの太さを感じる。 どんどん箸とレンゲが進んでしまって、すっかり良い気分になってしまった。いつのまにか完食してしまい、スープを飲んでは、水を飲むことを繰り返すうちに、完飲してしまった。 これが私の山岡家の初体験であった。

山岡家セラピー

これまで、私がラーメン屋に入って「また来よう」と思う店はほとんどなかった。しかし、このラーメン屋にはまた行ってみようと思わせる魅力があった。 他店舗に行っても感じるのはマクドナルドの如く、味がどこでも変わず美味しいということや、接客が丁寧であるという基本的な要素である。

豚骨の匂いは臭いし、店の床はどうしても脂で滑ってしまうし、座席や机は新品の清潔感とは異なるのに、山岡家にはなんだか気持ちが落ち着く不思議な雰囲気がある。 どうやらここは私にとって癒やしの空間なのだろう。私はこのラーメン屋で食事する行為を「山岡家セラピー」と勝手に名付けている。 しかしこの店は毎日通ってはいけない部類である。ある程度間隔を空けて、強烈な旨味とカロリーで圧倒されるために来るべきである。薬も過ぎれば毒になる。それに、1杯の値段は決して安いものではない。

ただし、山岡家セラピーの適応は広い。一人で行くのもいいし、家族や友人と行くのも良いだろう。24時間開店しているので、いつでも行けてしまう。 なんと注文する度に、「サービス券」がもらえる。これを集めると餃子やラーメン、山岡家グッズと引き換えられるという購買意欲をそそる仕組みがある。 山岡家は都市の中心部というより、地方都市や郊外の幹線道路沿いで見かける印象が強い。時間とアクセスが許すなら、思い切ってセラピーを受けに行くことをおすすめしたいくらいである。

実のところ、私にとって、本来の目的よりも山岡家に行くほうが真の目的になっているかもしれない節さえある。 スーパー銭湯に行って湯に浸かるよりも、湯上がりにフルーツ牛乳を一瓶飲み干すことの方が真の目的になっているかのように、 山岡家セラピーには、副次的な効果を際立たせるような計り知れない強みがあるように思う。

店内は意外と静かで、邦楽の有線放送が流れて、店員が元気よく挨拶するほかは、さほど騒がしいと思ったことはない。 ウォーターサーバーから水を汲んでいるときに周囲を見ると、ほとんどは談笑しながら静かにラーメンを待っている。 ラーメンが来れば皆黙々と食べるので、実は店内の喧騒は回転寿司やファミリーレストランの方が上回る可能性だってあるのだ。

私にとってこのラーメン屋で流れる時間は独特で、自分一人であっても、誰かと一緒に食事する時も、非常に心地よい時間である。 これはなぜなのだろうか?繰り返したように、山岡家の店舗は豚骨の匂いや、年季の入った座席、様々な客層が混在する空間であり、 三つ星ホテルや滅菌室とは対極の存在である。一つ言えるのは、ラーメンが途方もなく美味しいからなのだろうが、これはあまりにも主観的すぎる。 おそらく、豚骨の匂い、年季の入った座席、幹線道路沿いの光景、店員の妙に朗らかな接客、食後の軽い多幸感。これらが複雑に絡み合って、私の心身に何らかの変調をもたらしているのだろう。 このような現象を私はとりあえず「山岡家セラピー」と呼んでいるが、当然ながら治療効果に科学的根拠はない。あるのは月に一度くらい、どうにもこうにも山岡家に行きたくなるという身体の訴えだけである。 それがラーメンの力なのか、習慣の力なのか、それとも疲れた人間が温かくて味の濃いものに救われているだけなのかは、熟考せねばなるまい。

引き続き検証が必要だろう。私のおすすめはプレミアム塩豚骨である。